②『まだ秘密』

3/4
1526人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ
(のに、どうして……っ)  目の前にはその彼がいた。  あの頃よりも垢が抜けたような顔つきで、ただの優秀という言葉では片付けられない、自信も実力もあるというオーラ。  ブラックが飲めないと言っていたとは思えない。  挨拶も済めばいつもの朝礼となり、それぞれが仕事に取り掛かる。  課長、否、元課長と現課長が何か話すのか部屋を出て行けば、冷えていた空気はなくなり、むしろ冬から突然夏になったかのような熱をまとって堤防が決壊したかのように社内がざわついた。 「二年前に皇って新人、いましたっけ?」と言う人もいれば、「ほらあれだよ、妙に仕事が出来ると思ってたらいきなり栄転した奴。そいつだろあれ」と、しっかり覚えている人もいた。  沙菜の席は扉に一番近いところの端で、ひとり弾き出されたように出っ張っている。元々向かいにもデスクがあり、そこに皇が座っていたのだが、守矢が邪魔だと元課長まで説得させ撤去させたのだ。それほど彼のことが気に食わなかったのだろう。  それぞれが皇の話をする中、その守矢の「さっさと仕事しろお前ら!」という怒号が飛ぶ。やはり今回のこともご立腹のようだ。  逃げるように営業に向かう人もいれば、まだ小さく会話を続ける人もいて、特に女子グループの反応は凄まじかった。  見た目は静かに着席しているようだが、パソコンの方の仕事用メールとLINEがバンバンと飛び交っている。こういう時、裏でこっそり話すのが得意なのはやはり女子だと思う。 『ねぇ沙菜ちゃん、皇君のこと知ってた!?』  恵梨佳から送られてきたメールに、『全然知らなかったよ。私もびっくりした』と返事をする。デスクに乗っているスマホの画面もどんどん更新され、『綾辻さんの後輩でしたっけ?』と出ては『そうそう!』という言葉で重なっていく。するとまた別の女子から『知らされてた?』というメールが送られてきて、恵梨佳の時と同じ返事をするも『それっぽいこと課長から聞いてたんじゃないの?』と恵梨佳から返事が来て――という感じで、話が終わりそうもない。 (私は何も知らないし、むしろこっちが聞きたい!)  元々皇の教育係だったから皆聞いてくるのだろうけれど、自分だって本当に何も知らされていなかったし、本社に異動になることだって突然だった。まさにそれと同じそれにだんだん苛立ってくる。 (あーもー! 取り敢えず仕事! 仕事しなきゃ!)  恵梨佳から押し付けられた資料の修正がまだ終わっていない。それを早く終わらせなくては。  沙菜はまだ続いているLINEはそのまま放置し、メールの方は時折返しながらも修正に取り掛かる。だが画面に何度も表示される受信マークと、やはり皇の存在が集中を欠き、思うように進まない。  資料作りなんて手馴れたものなのに、気になるものがあるとこうも時間が掛かるものなのか。 「お前、いつもそのスピードで資料作ってんのか」  後ろから聞こえた守矢の声にビクリと肩が上がる。  昨日も一つの仕事にどれだけ時間を掛けるんだと言われたばかり。それに加えて現在の進みの悪さを見ればそれはもう嫌味の一つや二つ、彼は言いたいだろう。機嫌が悪いなら尚更。  首だけ振り返らせればやはり腕を組んだ状態で、眉間にシワを寄せて守矢はこちらを睨んでいた。 「そらなぁ、正社員のようにお前が仕事が出来るとは思っちゃいないが、それでもお前、一応ここに勤めてんだぞ? 最低ラインってもんがあるだろーが」  出た。正社員と契約社員を比べる言葉。その言葉がどれほど契約社員を敵に回しているか彼は気付いていない。  そもそもこれは恵梨佳の仕事だ。怒るのならば契約社員〝なんぞ〟に仕事を押し付けている正社員を叱って嫌味を言って欲しい。  けれどそれが言えたらここまで苦労していない。 「はい、すみません」  小さく頭を何度も下げる。  隣のデスクに座る、年下だけれど沙菜よりも先にここに勤め始めた木部夕奈(きべ ゆうな)なら普段沙菜がどれくらいのスピードで仕事をしているか知っているだろうし、恵梨佳が仕事を押し付けている会話も聞こえている筈だ。  だが彼女が助けてくれたことは一度もない。  他力本願はよくないと分かっているけれど、少しくらいフォローしてよと思うのは仕方が無いことだと誰かに認めて欲しい。 「だからお前はいつまで経っても契約社員なんだ。まぁ俺が課長ならすぐ切ってるがな」  それを聞いて、これが言いたかっただけかと内心溜息をつく。  守矢は次期課長と言われていたというのに、年下の、しかも後輩だった皇にその座を奪われたのが気に食わなくて、誰かに『本当は俺が課長になる筈だったんだ!』と叫びたかったのだろう。  それこそ、沙菜がフォローして欲しいと思っても仕方が無いことを認められたいと思ったように。  だが毎度その白羽の矢が立つのが自分というのも辛いものがある。  守矢の気持ちは分かるけれど、もういい歳しているくせに八つ当たりしてくるだけなのは正直勘弁したいところだ。こちらだって観音菩薩のように悟りを開いているわけじゃない。  皇に心乱されているのはこちらも一緒。 (やばい、作り笑顔が崩れそう)  まだ続く八つ当たりに頷くのもそろそろ限界だ。膝の上に置いてある拳を強く握れば、「すみません」という声が割って入って来た。  そんなことをしてくれるのは一人しか知らない。 「……皇、課長」  あの頃のように呼び捨てにしようとしたところで思い出したように付け足す役職名。  守矢の視線は沙菜の後ろ。どうやら気付かない間に皇は戻って来ていたらしい。  先程とは違う意味で拳をまた強く握り、身体を固くする。振り返ることはしない。 「お久しぶりです、守矢さん」 「えぇ。お元気そうですね、皇課長」  名前と同様、課長として敬う言葉だが、妙に強調された最後。そしてその顔は引きつっている。だが先程の挨拶の時と同様皇は一歩も引く素振りを見せず「守矢さんもお変わりないようで」と返す。  相変わらずの肝の据わりようだ。 「突然で申し訳ないのですが、今日の営業に同行させていただいても宜しいですか?」 「別に構いませんが」  その声音は全く構わないというものではない。けれど皇は喜ぶように礼を言った。 「ありがとうございます。現在の状況を把握するのは守矢さんにお聞きするのが一番だと思いまして」 「本社に勤務していたのですから、こんな子会社、把握するのは簡単でしょう」 「持ち上げすぎですよ。守矢さんに負けないよう必死に勉強させていただきます」 「ふん」  気に食わなさそうな顔を隠すことなく鼻を鳴らした。 「資料を取って来ますので、先に降りていてください」 「分かりました。宜しくお願いします」  二つの足音がどんどん遠くなる。  守矢も皇もいなくなり、沙菜は「はぁー」と大きく息を吐いた。  自分を狙った嫌味もイヤだけれど、バチバチと火花を散らす男の間にいるのも大変だ。  まぁ特に何をするわけでもなければ、熱くなっているのは守矢片方だけだけれど。 (でも、なんか久しぶりだったなぁ)  守矢にいらぬ嫌味を言われている時、ああやって皇が助けてくれることがあった。  用事があると言って沙菜を向かいの皇のデスクまで連れて行くも、それは大したものでないことが多く、わざと声を掛けてくれたことが分かった。  礼を言っても『それはこっちの台詞でしょう』と笑うし、一緒にご飯を食べても奢らせてくれないから、微糖の缶コーヒーをあげることしか出来なかったけれど。 (これも、もしかして助けてくれたのかな)  椅子を軋ませながら、デスクに向き直る。  嬉しいという気持ちは生まれない。手放しに喜ぶにはあの時の傷が大きすぎる。それでも、もう失った前向きな気持ちが甦ったかのように、どこかくすぐったくて。  ヒビの入ったコップの蓋を持ち上げても、今それは揺れるだけで溢れることはなかった。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!