①『お久しぶりです。また缶コーヒーを飲みましょう』

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①『お久しぶりです。また缶コーヒーを飲みましょう』

「これ、お願いね」  渡されるサインされた契約書。それは先程彼女と共に営業に行き、取ってきた契約だ。  先程まで先輩や上司に『もぎ取ってきました!』と自慢していたそれを渡すその姿は最早、綾辻沙菜(あやつじ さな) の中ではテンプレート化しつつあるけれど、心の隅では汗を流しながらどうして? と疑問を浮かべる自分もいた。  だがそれは押し込んで見ないフリ。 「うん、分かった」  笑顔で受け取り、頷く。いつものやり取り。  これからこれを元に書類や報告書の作成だ。 「あ、あとさ」  思い出したという態で唇に人差し指を当てて言う。なんともわざとらしい。沙菜はもう何を言われるか分かっており、今日も終電帰りを覚悟した。 「今日分かりづらいって言われた資料、直しといて」 「…………」  その資料を作ったのは貴方では? というか、契約を貰うために相手と話したのも私で、貴方は自分で作ったその分かりづらい資料を渡しただけじゃない。  すでに溢れ、許容範囲を超えたコップにはヒビが入っているけれど、やはりそれは見てみぬフリをして蓋をした。 「分かったよ」 「んじゃ、よろしく~」  後沢 恵梨佳(うしろざわ えりか) は手を振って、ヒールの軽い足音を立てながら自分の席に戻って行く。黒く長い髪はサラサラと揺れ、薔薇のような香水の匂いを残した。 その途中、他の同僚に「今月で何件目? お前、ほんっと優秀だよな」と言われている。 「そんな、私は契約内容について話しているだけで、相手の方が優しいだけですよぉ」  笑いながらそう話す彼女は「でもきっと先輩が教えてくださった営業方法が効いてるのかも!」と付けたし、別の先輩からの評価を受け取るのも忘れない。  それをぼんやりと眺めていれば、「おい綾辻」と後ろから声を掛けられ、脊髄反射で「はいっ」と振り返る。自分だけ古い椅子がギシと音を立てた。 「それ持ってるの今日の分の仕事か?」  そこに立っていたのは次期課長と言われている守矢康次(もりや こうじ) で、その姿を見ただけでヒビの入ったコップが悲鳴を上げた。 「あ、えと、はい……」 「お前さぁ、一つの仕事にどんだけ時間掛けるんだ」  はぁ、と大きく吐き出す溜息も聞き慣れたものだけれど、受ける痛みは慣れなくて沙菜は「あの、その」とどうにか説明しようかと思うけれど、小さい声が彼に届くことはない。 「普通、契約社員は残業もしてはいけないことになってんだぞ。でもそんだけ仕事のスピードが遅いから遅くまで会社に残ることになるんだ。それは残業とも呼べん。ただズルズル仕事の時間を引き延ばしてるだけだな」  片手を腰に当てて守矢が言う言葉の意味はきちんと理解している。  ようするに今月も残業時間はゼロだと報告しろということだ。仕事が遅いから時間を掛けて仕事をしているだけで、それらは全て自分の責任。それに残業代を払うなんて言語道断。 「同期で入った後沢をちっとは見習え。まぁ彼女は正社員だから比べたら悪いだろうがな」  ピクリと契約書を持つ指が震える。  周りと楽しそうに話しながら彼女はもう帰る支度をしている。だがそれを止める人は誰も無い。むしろ労う言葉を掛けている。  この手に持っている仕事は先程恵梨佳が自慢していたものです。けれどそれは恵梨佳ではなく私が頑張って説明してもぎ取った契約です。ダメ出しされた資料だって私が作ったものじゃありません。  定時で上がる姿も、その労いの言葉も全て本来は―――― 「…………」  息を吸う。また椅子の音を響かせて真っ直ぐ守矢を見つめた沙菜は、口を開いて。 「そうですね、すみません」  へらりと笑って、謝った。
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