④『あー、無理だわ』

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④『あー、無理だわ』

 その晩、グループラインが騒がしかった。 『ついに! あのセクハラ新田成敗!』 『あの時の課長格好良かったですよねー!』 『マジヤバ激ヤバだった~! あれに惚れるなって方が無理じゃない?』 『てかさっ、あの後恵梨佳なに話してたの!? なんかいい雰囲気じゃなかった!?』 『え~、ひ、み、つ』 『なんですかそれー! めちゃくちゃ気になるんですけどー!』  ポコン、ポコンと湧いてくる言葉を、ベッドに両肘を置き眺める。  確かに今まで誰も倒せなかったセクハラ男を倒した皇は良い上司だし、格好良かっただろう。だが一言でもいいから、誰かセクハラされていた私に対しての言葉は無いのだろうか。 「なに、LINE?」  後ろから沙菜の身体を抱きしめ、肩越しに覗き込んでくる凛空に沙菜は頷いた。 「うん。そうだよ」 「課長? なに、課長なにしたの? めっちゃ騒がれてんじゃん」 「セクハラする人を注意してくれたの」 「へ~」  どうでもいいような返事に、実はセクハラされてたのは私なの、と言ったとしても気にしないということが何となく分かり、沙菜は何も言わない。  このグループラインが自分抜きのグループで行われないのは、きっと自分に見せるためのものだということも薄々気付いている。  恵梨佳から始めた話だ。きっとあの後課長と仲良さげに二人で話していたことをアピールしたかったに違いない。 (別に私にまでする必要ないのに)  小さく溜息をつく。  でもきっと彼女からしたら皇の元教育係で、戻ってきたかと思えば沙菜をリーダー的な立場にし、それどころかセクハラされているところも助けたとなれば、牽制しておかないと気が済まないのだろう。 (二人がどうなろうと、知ったこっちゃないし)  じわりと舌の上にコーヒーの苦味が広がる。無意識に沙菜は肩に顎を置いた凛空の顔に自分の顔を触れ合わせた。  ふわりと香るシャンプーの匂いと、ちゃんと乾かした柔らかい髪の毛が頬を擽る。  取り敢えず『仲いいんだね』くらいは言っておいた方がいいかと思い、スマホをタップし始めたところで「そういやビールは?」と凛空に聞かれた。 「あ、ごめん。まだ出してないや」 「えー。俺が風呂ったら必ずビールっつってんじゃん」  不機嫌な声になり、身体が離れる。  ドス、と体重のまま床に尻を置く凛空に、下の階の人の騒音になっていないか心配になるも、今は早くビールを取ってこなければ彼の機嫌をもっと損ねてしまう。 「ごめん」  沙菜はベッドにスマホを置き、急いで取りに行った。  冷蔵庫を開ければ凛空用のビールが数本並んでいる。買ってきた食材は今日の晩御飯を作るのに使ってしまったから寂しいくらいスカスカだ。  冷えているであろう一番奥のそれを取って戻り、蓋を開けて渡せばゴクゴクと喉を鳴らして美味しそうに呑み、「ぷはー!」と息を吐いた。  アルコール独特の匂いと、ビールの麦の匂い。そして眼前に広がった凛空の笑顔に沙菜はホッと胸を撫で下ろした。どうやら機嫌は戻ったらしい。  途中だったスマホをまた手に取ろうとすれば「お前も入って来いよ」と声を掛けられた。もうその声はご機嫌だ。 「あ、でも先に食器洗いたいから」  それにまだグループLINEに一言も送れていない。だがそんなこと彼には関係ないのだろう。 「そんなの明日洗えばいいじゃん。俺待ってんだけど」 「……ごめん」  沙菜は小さく謝る。もう洗い物もスマホも無理だ。  無意識に出て来てしまいそうな溜息を必死に押さえ、風呂場へ向かう。いつもならそのまま扉を閉めて何も考えないようにしながらシャワーを浴びて出てくるのだが、なぜか今日は脱衣所に入る前、振り返らずに言ってみた。 「実はさ、セクハラされてたの私なんだよね」 「へー」  適当な返事。きっと凛空はビールを呑みながら自分のスマホを弄っているだろう。そして付け足したような一言。 「大変だったな」 「……うん」  分かっていた。こうなるって。でも聞いてしまったのは、もしかしたらという期待。  皇が助けてくれたからって、凛空まで優しくしてくれるわけでも、浮気をやめてくれるわけでもない。  分かってる。分かっているけれど。 「じゃあ急いで浴びてくるね」  優しさに甘えたいっていうのは、我侭ですか? ~ * ~ 「えっ、結婚!?」  久しぶりに親友の穂稀から連絡が来たかと思えば、まさかの結婚話に沙菜は驚きの声を上げた。  前はもう少しマメに連絡を取り合っていたりお茶をしていたが、沙菜の仕事が忙しく、最近は全く連絡を取り合っていなかったのだ。きっと彼女も気を使ってくれていたのだと思う。  彼氏がいたことは知っていたが、まさかそこまで話が進んでいたとは知らなかった。 『そうなの。今度結婚式を挙げることになって、沙菜にも是非出席して欲しいと思ってるんだけど、どうかな? 嫌だったら遠慮なく断ってくれても大丈夫だよ』 「いや、大丈夫……たぶん」  気乗りしないのはなぜだろう。  親友の晴れ姿、見てあげたいのに見たくないと思う自分もいて、わざとぼかすように『たぶん』とつけた。 『そしたら招待状送るから、大丈夫そうだったら出席のお返事ちょうだい? あ、彼氏さんの分の席も用意しとこうか?』 「あー、えーっと……」  沙菜は返答に困り、またぼかした。 「凛空にも予定聞いてみるから、分かったら連絡入れるね」 「そしたらまた」と電話を切り、溜息をつく。  以前話していた例の後輩が帰って来たという話をすることも忘れ、ただただ〝結婚〟という二文字が沙菜の心を乱した。  たしかにもう三十歳だし、結婚していてもおかしくない。他の友達だってもう子供がいたりして、両親からもたまに連絡が来て『あんた結婚とかどうすんの?』と聞かれては、『今は仕事がしたいから』と言って遠ざけた。  だが気にしていない、ことはない。  三十路になった誕生日。結婚とかどうしようと不安にもなった。将来どうするのか。このままでいいのか。  けれどそこまで深く考えなかったのは本当に仕事が忙しいからということと、急がなくても一応彼氏がいるからいいかという気持ちだ。だが一番の親友が結婚するとなると――なんだろう。妙に焦る。 「結婚、かぁ」  小さく声に出した言葉はなぜか自分にとっては縁の無いものに感じられ、そのままむなしく消えていくと思ったらスマホが震える。  画面を見ると凛空からのLINEだった。
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