⑤『私は浮気したくないから』

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⑤『私は浮気したくないから』

 休日の午後。  駅から少し離れたアーケード街。天井があるここは外よりも少し暗いけれど、太陽の光が降り注ぎアーケードを照らす。  沢山の人がいる中で、まるで彼だけが浮かび上がっているように見えた。 「こんにちは」  にっこり微笑んで、彼はこちらへ近づいてくる。 「こ、んにちは」  まさかこんな所で会うとは。みな休日に出掛けるところは同じなのか。世の中とは狭いものだ。けれど沙菜はそんなことよりも、今目の前にいる男の笑みを見て、えーっとと心の中で汗を掻く。  皇は人当たりの良い笑顔を作れる人間だ。だがなぜだろう。今はその笑みがとても怖く感じる。 「皇君もお出かけかな?」 「はい。ちょっと本を買いに」  なんとか笑みを浮かべて聞けば、皇は言いながら手に持っていた近くの書店の袋を持ち上げた。  そういえば彼はよく本を読むと言っていた。今話題の本でも買ったのだろうか。笑みが怖い彼と無難に会話をするため、どんな本を買ったのか聞こうとしたが、その前に皇が続ける。 「今の誰ですか?」 「え? あ、えっと、彼氏」  一応。と付けそうになり悲しさを覚える。  そんな自分に落ち込むも、皇の「へー」という不機嫌そうな返事に沙菜は妙に姿勢を正してしまう。なぜか怒られているような気持ちだ。 「彼氏がいたとか聞いてない」 「だって、言う必要ないし……」  自分と彼はそういう仲でもなければ、もう仲良しな先輩後輩でもない。まず凛空と付き合いだしたのは皇が異動になり、連絡も取らなくなってからだ。知らないのは当たり前だし、言う必要だってない。  そう思うのに言葉は尻すぼみになっていく。 「まぁそうですね」  そんな沙菜をどう思っているのかは分からないが、皇は軽く頭を掻きながら溜息をついた。 「で? その彼氏さんはもう行っちゃったみたいですけど、これから仕事とかですか?」  一体いつから見ていたのだろう。  置いて行かれたところまで見られていたのは少し恥ずかしい。 「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと怒らせちゃって」  苦笑しながら沙菜が言えば、皇は「怒らせた?」と驚いた表情をした。 「彼氏に何か言ったんですか?」 「あー、んーと……」  どこまで話していいものだろうか。 (まぁ、別に気にする必要もないか)  置いて行かれたところを見られた時点で情けない姿を晒しているのだから、今更だ。 「親友の結婚式が今度あるんだけど、一緒に出席してくれないか聞いてみたの」  その言葉に皇は「うん」と頷く。どうやら続きを待っているようだ。沙菜は「うーんと」と、いつものへらりとした笑顔を作った。 「そんな感じ」 「え? それだけ?」 「うん、まぁ、あと実家に遊びに来ないかとか」 「それだけで怒るんですか?」  驚きから呆れた顔に変わる。 「折角誘ってもらったんだから、一緒に出席すればいいのに」 「そういうの苦手みたいだから」 「実家にも顔を出して欲しいとか、怒るどころか嬉しくないんですかね?」 「彼としては複雑なのかも」  なにせ結婚を考えるどころか浮気までしているのだ。それなのに実家に挨拶なんてしたいわけがない。  けれど何も知らない皇は理解できないというように表情を歪めたままだ。  その顔を見て少し胸の中のモヤモヤが薄れたのは知らんぷり。 (だめだめ、流されるな)  このまま彼と話していては余計なことを言ってしまいそうだ。  皇に対するモヤモヤを、昔みたいに職場で助けてくれたから、そしてこうやって自分の話を聞いて共感してくれるからと簡単に消し去っていいものではない。  半分以上これは意地だと分かっているけれど、複雑なのだ。心というものは。  このまま一緒にいない方がいいだろうと判断し、「それじゃあまた」と別れようとしたが、全てを言い切る前に「このあと時間ありますか?」と聞いてきた。 「立ち話もあれですし、近くの喫茶店にでも入りませんか?」 「いや、でも……」  これ以上一緒にいない方がいいと思ったのに、これ以上会話なんてしたらほだされる可能性大だ。  自分が苦しいところに手を差し伸べられたら弱いことを嫌というほど理解している。  それにまず先程まで彼氏とデートしていたのに、置いて行かれたからって別の男とお茶をするはどうだろう。でも凛空もこれから香美のところに行くのだから責められることはない。同じことをするだけだ。けれど相手がしているからって自分もしていい理由にしてはいけないと思う。  そこまで凛空に引きずられたくない。  沙菜は強い気持ちを持って断ろうと思ったが、皇が先手を打った。 「仕事の話も少ししたいので」 「…………」  改めて確認するが、今は休日の午後。  まだ彼が後輩だったら、『休日にまで仕事の話はやめようよ』と笑っただろう。折角の休日に仕事の話なんてしたくない。プライベートと仕事をきっちりと線引きし、同僚に会うこともしたくない人は沢山いるだろう。  だが今、彼は上司だ。断るなんて誰が出来ようか。 「……分かりました」  仕方なしにお茶をするという姿を隠すことなく、溜息をつきながら言ったけれど、皇はどこか嬉しそうに笑うだけだった。
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