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③『大丈夫だから』
「ん……」
遠い意識の向こうで何かが響く。
無意識に手を伸ばしてスマホを取る。そこでようやく目を開ければ、画面には大きく表示された時間とアラーム音が耳に届いた。
まだぼやけた顔でそれをタップし、止める。そして自分の寝る横に視線をやるも、そこには誰もいない。
「…………」
そのまま何となくSNSを確認する。
スクロールしていけば、昨日行った食事について楽しそうな言葉と、載せられている写真。
もうそれは最初から分かっていたことだ。特に何を感じることもなく流し見し、そのまままた上へとあがっていけば、後輩である香美の『なんとびっくり! 夜に彼氏が家に来てくれたの! 私愛されてるw!?』という言葉が目に入り、指を止める。
それと一緒に載せられていた写真をタップし、拡大する。
二つのグラスが置いてあるテーブル。そしてそこには彼氏の物と思われる腕時計が写っていた。
「昨日はそっちに行ったんだね」
それは何度も見たことのある腕時計。写真を撮られ、こうやってSNSに載せられているのを彼は知っているのだろうか。
沙菜の隣に彼はいない――つまり、そういうことだ。
凛空は同僚の後輩、香美と浮気をしている。
いつからとか、正確なことは覚えていない。ただ彼女が彼氏についてSNSで書く言葉、そして載せる写真に見覚えのある物が写るようになった。
最初は分からなかった。でも数回見て、見覚えがあるなと思って、でもたまたまだと思った。けれどそう思うのも限界で、ある日突然冷えた心で、
(あ、これ浮気されてるな)
と思ったのだ。
まさか同じ会社の後輩に手を出すとは。バレても構わないと思っているのか、それともそこまで考えていないだけなのか。
どちらにしても、香美の方は凛空が沙菜と付き合っていることを知っていてSNSを更新しているに違いない。
彼女に直接何か言われたわけではないが、こう毎度毎度、凛空がそっちに行っていることを提示され、その次の日には『昨晩、綾辻さん彼氏と会いましたぁ?』と聞いてこられれば、イヤでも気が付く。
(まぁ、それでも別れていない私も私だけど)
浮気をされていると分かっても、香美に変なマウントを取られても別れるという選択肢は生まれなかった。
今の自分には甘えられる相手が必要だ。
誰でもいいわけではないけれど、顔もイケメンでそれなりに優しくしてくれて身体の相性も悪くない。
好意とかそれ以前の関係なのに、〝たかがそれだけ〟で甘える場所を手放せるほど、沙菜は強くなかった。
「これこそ、今更だよね」
自嘲するように笑い、起き上がる。
さて、これから仕事に行かなくては。
朝ご飯を作るのも面倒で、食パンをそのまま食べればいいかと思いながら床に足を付ければ、その傍らに置いた仕事カバンが目に入った。
口の開いたそこには、昨日貰った缶コーヒーが静かに存在をアピールしていて、沙菜は目を細めた。
帰って来た後輩と、昨晩別の女のところに行った彼氏。
心が荒んでいるのは自分でも分かっている。衝動的に動いて失敗することがあることも。それでも伸ばした手を止めることはもう出来ない。
そっとその缶コーヒーを取り、親指の腹でそれを撫でる。
何も考えないようにしながらそれの蓋、プルリングに指を引っ掛けた。
缶独特のプシュっと空気の音が響いてから、蓋が開く。
唇を近づければコーヒーの香りがして、妙に懐かしさを感じる。これを飲まなかったからといえど、喫茶店などでコーヒーの香ばしい香りは嗅いでいたというのに。
缶に口付け、それを斜めに持ち上げる。コクンとゆっくりそれを飲み込んだ。
「……甘いね」
変わらない味。微糖と書かれているのに、ブラックが飲める沙菜からしたら凄く甘く感じそれに、無意識に口元が弧を描いた。
それでも、二年前に忘れたいと思って思い出と共にこの缶コーヒーも封印していた筈なのに、ちゃんと味も覚えていたことがなんとなく悔しかった。
それから数日。
元課長もいなくなった頃、朝礼での現課長、皇の言葉でまた社内が騒がしくなった。
「今度から少し体制を変えてみたいと思います」
どういうことだと空気が困惑に変わる。
「今まで営業は二人制で行っておりましたが、新人以外は一人でお願い致します。これは皆さんが優秀だから取れる方法です。個別で動けば時間も範囲も広がります。ですがその分、負担と責任は大きくなるでしょう。なので」
皇が沙菜の名前を呼ぶ。
「綾辻さんに管理業務に入っていただこうと思います」
「えっ」
まさか自分の名前が呼ばれるとは思っていなかった沙菜は驚きのまま声を上げる。皆も『は?』というように一番後ろの席の沙菜に視線を向けた。
「えっ、あの、いやっ」
どうしてそんなことになるのか分からず、慌てて両手を差し出し振る。しかし皇はそのまま続けた。
「彼女は業務範囲がとても広く、全般を把握しておりますので、仕事の割り振りやスケジュール管理に適しているかと思います。事務作業を各自おこなうのはこれまで通りですが、営業報告の取りまとめは彼女におこなってもらいます」
「反対です、課長は来たばかりだからわからないかもしれませんが、彼女にそこまでの能力はありません。」
そう言ったのはやはり守矢だ。
彼の苛立った言葉に、皇は「あくまでこれは試験的にです」と返した。
「勿論私もサポートに入ります。慣れないことも沢山あると思いますが、たとえこのやり方でも皆さんなら今以上の業績を残せると思います」
「たとえ試験的であっても、自分がとってきた案件が、まともにまとめられなかったら元も子もないでしょう。正社員ならまだしも、契約社員ですよ?」
「そうですね……」
皇は悩むように顎に手を当ててしばらく考えてから「ではこうしましょう」と言う。
「結果が出なければ私が責任をとります。その場合は守矢さんの思う組織体制にしてください」
「なっ」
言葉こそ穏やかで、責任を取ると言っているが、要するに上役である自分に従えということだ。守矢もこれには言葉を失う。
「何かあればすぐ私に相談してください。個々で動くとはいえ、会社全体で一緒に回していきましょう。宜しくお願い致します」
頭を下げ、皇は朝礼を終わらせた。
まだざわつく社内の中で、守矢の「どうせうまくいかんだろ」という声がやけに大きく響くし、周りからの視線も痛い。
(もう、泣いていいかな……)
顔に無難な笑みを張り付かせながら俯きそうになれば、「綾辻さん」と皇に名前を呼ばれた。
「これからにあたっての説明がありますので、ちょっといいですか?」
「は、はいっ」
視線を感じながら皇の後ろをついて行き、別室に移動する。扉が閉まると同時に沙菜は皇の胸倉を掴まんばかりの勢いで「ちょっとなに考えてんの!?」と文句を言った。
皆の前でならまだしも、二人の時にまで彼を上司扱いなんて出来ない。以前と同じ口調で彼をにらみつける。
「私がリーダーとか……っ、責任取るって、私に期待しすぎっ! 失敗したら、ここにいられなくなるじゃない!」
「大丈夫ですよ」
でもあくまで皇は冷静で穏やかだ。それがより苛立たせる。
「何を根拠にそんなことっ、そうやって皇君まで私のことっ」
周りと同じように扱うのか。邪魔者扱いするのか。もう二年前に裏切られただけで十分だ。
今度こそ本当に涙が溢れそうになれば、
「ちがう」
皇は強い言葉でそれを遮った。
交わった視線。あの頃と変わらない真っ直ぐな瞳で沙菜を射抜く。
「大丈夫だから」
柔らかいけれど、絶対的な何かが含まれていて。
「いいから言うこと聞いとけ」
「…………っ」
薄く開いた口から何かを言うことが出来ず、ぎゅっと唇を噛み締める。
そんな様子の沙菜に笑みを見せてから「ではこれからについてですが」と仕事について説明を始め、沙菜はそれを黙って聞くしかなかった。
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