人ごみが好き

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 人ごみが好きだ。そう言うといつも奇妙な顔をされる。人ごみなんて嫌い。家に一人でいるのが好き。そういうタイプに見えるらしい。  昔はそうだった。子供の頃。家に引きこもって本を読んだり映画を観たりばかりしていた。家が好きだった訳じゃない。他に行く場所がないからそうしていただけだ。  地元だとちょっと外に出ただけで知った顔に遭遇する可能性がある。学校の奴ら。僕にとって学校は息苦しい監獄だった。せっかく外に出て自由に振る舞えるというのに、どうして同じ監獄の囚人と顔を合わせなきゃいけない? それが嫌だから家にこもってばかりいた。  それが変わったのは、就職し、転勤して外に出ても知っている顔に出くわさない場所に一人暮らしするようになってからのことだ。  最初は恐る恐るだった。外に出てカフェに入ってみたりした。好きな小説家がカフェで小説を書いているというインタビュー記事を読んだことがあって、自分もカフェでパソコンを叩いたり読書したりしてみたかった。地元では勇気がなくてそんな大胆な行動はできなかった。  実際、カフェは居心地が良かった。自分のことを知らない他人がたくさんいて、それぞれが会話に興じたり各々の作業に集中したりしている。そういう他人の存在を感じながら時間を過ごすということは長い間自室に閉じこもってばかりいた僕にはとても刺激的だった。  自分のことを知っている職場の人間は相変わらず好きにはなれなかったけれど、自分のことを知らない人間の存在にはどこか癒やされさえすることに僕は気づいていた。  以来、カフェ以外にも人の集まる場所に積極的に足を運ぶようになった。大型ショッピングモール、満員の電車、夏祭り。  人が密集していればいるほどにその空間に存在する僕のエネルギーも上昇した。世の中にはいろんな顔や声の人間がいる。そしていろんな考えを喋っている。動物園の動物を観察するよりも、見ず知らずの人間のお喋りを聞くことの方が僕にとっては刺激的で楽しかった。 「なるほど。それで人ごみの中に積極的に足を運ぶようになったと」  目の前にいる制服を着た三十代後半くらいの鋭い目をした男が言った。 「そうです。人ごみの中にいるとき、生きてるって感じがするんです」 「自分の才能を生かせるから?」 「……?」  男は机の上に視線を落とした。いろんなブランド、柄の財布が机の上に所狭しと並べられている。 「これはごく一部だ。これは、あなたが掏ったもので間違いないね」  覚えがない。覚えはないが、気が付くと部屋の中にたくさんの財布が溢れていた。 「防犯カメラにあなたが被害者の女性のバッグから財布を抜き取るところが映っているんだ。言い逃れはできないよ」  警官の制服を着た男が真っ直ぐに僕を見て言った。  僕は人ごみが好きだ。いろんな人の存在を見たり感じたりするのが好きだ。それだけだ。最初はそれだけだったんだ……。
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