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〈序〉雨音
傾いた陽の紅色の光線を受けた手は恥じらう露路さんの面のように染まって。こうして二人で秘めやかに集うたびに、邸には雨が降っておりました。
女性のごとく白くてほっそりとした指でありながら蛇腹のふいごを自在に操る手は節が隆起して血管が太く浮き上がります。
異国からの土産物だと聞いていた手風琴を兄さまはとても上手に奏でてみせたのです。
海を越え、潮風に運ばれてきたふくよかな音色を露路さんは不思議なことに雨の音のように感じておりました。それは兄さまが露路さんに初めて手風琴を弾き鳴らして歌を聞かせてくれた日が雨であったからかもしれませんが、その幼き日のことはもうよく覚えていません。
いついつの日も自らの演奏に聴き入る妹に、兄の有雪さんは「音楽の知識をもたない素人でも簡単に旋律や伴奏を弾くことができるよ」と微笑みます。薄紅の口唇から、わずか小さな歯が覗く、しなやかでやさしい笑みでした。
ゆうべの陽、手は紅く、有雪さんが自身で奏でる音楽の血潮に染まっております。
有雪さんはとても良い耳を持っていましたし、演奏する曲はいつも露路さんの言入れで決まります。時おりは歌を合わせることもありました。
「軟派の方々が歌っておられるの」
露路さんは声を弾ませて話して聞かせます。女学校では廊下に宝塚少女歌劇団の歌が響いておりました。授業を終えた生徒たちが口々に機嫌良く歌うので、やがて何人にも伝わり、いつしか合唱隊ができるのだというのです。
有雪さんが「露路さんは歌わないの?」と尋ねると、露路さんの面が、気恥しそうなものに変わります。そして「歌わないわ」と一言。
「一緒に歩いて眺めているの」
妹の返答に有雪さんが退屈そうにします。色の薄い茶の瞳が不満を物語って、口は「どうして歌わないの? 何故?」と動きました。
そのような兄の表情を露路さんが嬉しそうに見つめています。近頃の有雪さんはすっかり生気をなくしてしまったように思えたので、兄の顔に変化が見られたことはとても嬉しいことでした。
「宝塚はね、歌って踊るんですって。兄さま」
「ああ。知っているさ」
「皆んな私たちと一緒の女性なの。男の方も女性よ」
生徒たちで真似ているのだと露路さん。妹があまりに熱心に話を聞かせるもので、無邪気な様子に有雪さんのほおも緩みます。
演奏を終えてもなお、鍵盤に添えたままの有雪さんの手を露路さんが取りました。
「級の方が踊りを教えてくださって」
歌は露路さんの言入れで始まりましたが、少女歌劇のように踊って回るわけにはいきません。有雪さんの胸が締めつけられて息が苦しくなってしまうのです。
手風琴を奏でる兄の青白い手は露路さんには天使の羽のように見えました。そして今日の日のことを忘れずに心の日記に書こうと思うておりました。
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