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〈起〉揺籃(ようらん)
十貫寺露路さんというと学校の中ではよく知られた女生徒で、雨降りの日に傘で美しい面が伏せられてしまうのはとても勿体ないことなのだと誰もが思うたものです。
しかし傘の向こうから、ちらっと覗く唇に微笑みかけてもらいたかったので、皆んなが自分から声をかけていました。
ひなげしさんと妹の華美さんもそのうちの一人です。妹の、といっても本当の姉妹ということではありません。年長上級のひなげしさんに見初められた華美さんが「お姉様」と呼んでいるのです。
「きっと忘れて帰ってしまわれたのね」
終業の鐘が鳴り渡る校舎でひなげしさんが呟きます。その手に、むらさきのりぼん。細やかな紅の刺繍も施されています。華美さんが背伸びをして肩越しに覗くと、ひなげしさんが「露路さんの物よ」と言いました。
ひなげしさんは露路さんと同じ級ですから、彼女がこのりぼんで御髪を結い上げていたことはよく知っています。一方の華美さんは年ごろも違いますし、傘で伏せられた美しい面を時おり目にするくらいのもの。露路さんが自分を知るはずもありません。
ですから、お姉様に「届けに行きましょうか」と言われ、十貫寺邸に向かうことになると、それはそれは緊張してしまいました。
ひなげしさんと華美さんが寄り添いながら行きます。しかし今日は帰路につくわけではありません。
先ほどから身を固くしている華美さんをひなげしさんは微笑ましく思います。
「あまり緊張なさらないで? そうでなければ露路さんにも伝わって、あの方の胸が締めつけられて息が苦しくなってしまうの」
二人は袴の泥はねに大層気を遣いながら邸の門をくぐりました。
女中の案内のもと、露路さんの部屋の前に来ます。扉を拳で三つ叩いて返事を待ちます。やがて「……どうぞ」と声がします。掠れた、露路さんの声でした。
美しい乙女の面は、今は傘ではなく寝台へと垂れた天蓋に隠れていました。
すかし模様の布越しに華美さんと目が合います。右半分の面を枕に押しつけた露路さん。白いレースの向こう側に薄い茶の瞳――きらきらとしていて、白目は青白く――さらに密生したまつ毛が覆いかぶさってとても綺麗です。
あまりの美しさに華美さんは圧され、背すじに甘い痺れが走り出すのを感じました。
そんな中でひなげしさんが「露路さん。私たち、あなたのりぼんを届けに参ったの」と伝えます。
「まあ、ありがとう。……とても大切なものなの」
白い露路さんの面が染まります。恥じらいの赤みが差して、桜花のようなほお。
露路さんはいくらか元気よく振る舞いましたが、変わらず声は掠れて、やや低くなっていました。ひなげしさんが気遣わしげに聞きました。
「また、よく息が苦しくなってしまわれるの?」
対する露路さんは肯定するでも否定するでもなく、ただただ微笑んでいます。どこかもの悲しげに……
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