雑踏を越えて。

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 密の自宅はオフィス街を抜けた先にある集合住宅なのだが、横断歩道の先にあるデザイン事務所のガラス張りの一階オフィスをみて目を疑った。つい先程まで、恐らくは私立探偵であろう男性に尾行されていた女性が、恐らくは部下であろう男性に指示を出していたからだ。密は大慌てで横断歩道を渡り、<クローバーデザイン事務所>と掲げている会社に入った。 「いらっしゃいませ。新規の方ですか」 スーツ姿の女性が応対して、彼女から指示を出されていたであろう男性は、奥の従業員用出入り口から外に出て行ったから、オフィスの中では密と女性が二人きりになった。 「あの…?」 女性が怪訝そうに密の顔を覗き込むと、密は慌てて座り、彼女に話しかけた。 「名刺、もらえる?」 「はい、どうぞ」 2人が机を挟んで向き合う形で座ると、密は名刺を要求して、名前を確認した。一級建築士、チーフインテリアデザイナー鳥嶋茜(とりじまあかね)、と名刺には書かれていた。 「本日は、どのような…」 「鳥嶋さん、ついさっき、駅前のコーヒー屋で仕事していませんでしたか」 「え…?」 「青いペーパーファイル広げて、書類になんか書いてましたよね」 「ど、どうしてそれを…」 「おれもあの店にいたからです」 まさかこれがいわゆるストーキングなのか、と警戒した茜は慌てて腰を浮かせたが、逃げるよりも早く、密は茜の手をとっさに掴んだ。 「聞いて下さい、鳥嶋さん。おれはカウンター席に座っていたんですが、おれの隣に座っていた男性客は携帯電話の中の、明らかに盗撮された鳥嶋さんの写真を見て、あなたが店を出て行くと、ほぼ同時に席を立ちました。ストーカーに狙われているんですか」 密が一息で説明すると、茜は渋々と席に着いた。 「…それは多分、私の夫が雇った私立探偵よ。ストーカーとか、そんな類じゃないわ」 「…心当たりが?」 「うんざりするほどね。夫は、私に慰謝料を払うのが嫌で嫌で仕方ないから、何とかして私の不貞の事実を掴みたいのよっ…」 そこまで話してからはっと何かに気付いたように密の手を振りほどいて立ち上がり、表に面しているガラス窓のブラインドを全て下ろした。 「ごめんなさい。あなたの話を聞くと、今こうしている瞬間も盗撮を企んでいるかもしれないわ」 密も、茜と同じようにはっとして、慌てて答えた。 「こ、こちらこそいきなり押しかけたから」 「座って待っていて下さる?」 茜は隣の給湯室に入り、恐らくはコーヒーを作り始めた。 「コーヒーで良かったのかしら」 「はい」 「お砂糖ミルクは?」 「ブラックで結構です」 茜は、トレーにコーヒーが入ったグラスを2つ載せて戻り、一つを密の前に置いて、それから受付の机を挟んで向かいに座った。 「探偵が私に張り付いているって教えてくれただけで感謝するわ…お名前、教えて頂ける?」 「は、はい…京島密です」 「平日のこんな昼間に、何をされている方なのかしら」 その言葉に、密は勿論ぎくりとした。 「…売れない作家です」 「あら…」 「本当は小説を書きたいのに、普段は雑誌に記事を書いて糊口を凌いでいます。だから、鳥嶋さんを尾行する探偵の後を尾けたのも、何か面白い話のネタになるかも、と考えたからです」 茜は、最初は目を丸くして、それからクスクスと笑った。 「素直な方ね。もっと誤魔化してもいいのに」 「下手に誤魔化すと、ストーカー扱いされそうだったから…」 「ああ、そうね」 密は、勧められたコーヒーを一気に飲み干してから告げた。 「あなたに探偵が張り付いている、とお伝え出来て良かったです。失礼します」 そう言って席を立とうとしたのだが、茜は慌てて密の腕を掴んだ。 「待って、京島さん。もしかすると、探偵があなたに接触してくるかもしれないから、連絡先、教えてくれる?」 「…いわゆる、ダブルスパイですか?」 「ま…そうね」 「いいですよ」 ネタに出来る、という下世話な理由は口にはしなかったが、暗黙の了解として茜もそれを悟っていたかもしれない。茜と携帯電話の連絡先を交換してから、クローバーデザイン事務所を後にした。
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