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別れる予定の夫から痛くも無い腹を探られていることが判ったからなのか、茜の勘は奇妙に冴えていた。宵の内も過ぎた頃、密が馴染みの大衆食堂カウンター席に座っていると、あの男、コーヒー屋でも密の隣に座っていた男が隣に座ってきた…が、男は、恐らく隣席の密になど注意を払わなかったのだろう、まるで初対面であるかのように接してきた。
「隣、空いてますか」
「…どうぞ」
時間が時間、もうすぐ10時になるから、店内の客はまばらだった。それなのにわざわざ密の隣に座ってきたということは、密と茜の間に、何かあったのか探るつもりだろうと容易に察しがついた。
どうやって誘い水を出すか、と双方ともに考えていたが、先に打って出たのは、密だった。茜のデザイン事務所を出る前に、少しばかりもらったパンフレットを広げた。
「あ、お兄さん、デザイン事務所を探しているんですか」
こんなミエミエの罠に引っかかるなんて、頭が悪いな。
「そうですけど…」
「実は俺もなんですよ。このデザイン事務所、どうですか?」
「まだおれも頼む前だから…ああでも、チーフデザイナーの鳥嶋さんって、綺麗な女性でしたね」
「へー、そうなんですか」
「それで今度、彼女に仕事を頼もうかと思って」
「もしよかったら、仕事を頼んでみた感想とか教えてもらってもいいですか?」
「ああ、構いませんよ」
「連絡先を頂けますか?」
「ああ、はい」
携帯電話に入ってきた名前は桜田健一郎、肩書は飲食店経営者になっていた。
盗聴されている危険性も考慮した茜と密は、メールだけを使っていた。
<桜田健一郎、カフェ&レストラン サイダーハウスの経営者、住所は×××、電話番号は□□□□になっているけど>
<名前はともかく、住所も電話番号も完全な偽造ね。オンラインで調べたら、貸しデスク屋になっているわ>
<貸しデスク屋?>
<名前だけの会社の事よ。ペーパーカンパニーと言えば判るの?電話をかけると○○社の人間が出るけど、実在は無し。詐欺師がよく使うのよ>
<この桜田って男、多分またおれに接触してくるけど…>
<いいわ。こっちが罠にかけてやるわ。密も協力してね>
<喜んで>
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