蜩ー夏の終わり

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蜩ー夏の終わり

「カナカナと鳴くのは(ひぐらし)。蝉の中では静かな彼らの声が聞こえると、夏の終わり」 達夫が言った言葉を静は呟いてみる。 あれは夕暮れの公園を二人で歩いているときだった。 コツコツという達夫の杖の音に、カナカナという蜩の声が重なっていた。 「声じゃないけどね」 そう言った静に、目を閉じたまま達夫は笑いかけた。 「声の方がいいじゃん、ああおもしろい虫の声ってさ」 歌うように言った達夫の声音を思い出した静の耳に、今年もカナカナという蜩の声が届く。 どこか淋しげに響く、(とき)を見送る声に送られることを待たずに、達夫は静の前からいなくなった。 ◆ 「見えないと、よく聞こえるようになる」 そう言って達夫は笑った。 達夫の病は少しずつ進み、半年ほど前に光を完全に失くしていた。 「覚悟してた」と達夫は言っていたけれど、どんな気持ちなんだろう、光が少しずつなくなって行くのは。自分には想像ができないそんなことを考えながら、静は達夫の肘にそっと触れる。 こうして散歩をしている間も、達夫の体は病に蝕まれていく。昨日よりも今日、今日よりも明日。着々と。 達夫の杖の音と、カナカナという音はいつかきっちりと重なっていた。 歩きながらそうなるように、達夫は歩くスピードをコントロールしているのかもしれない。ふたつの音が響く中で、蜩と達夫が夏の終わりを奏でている。静はそう思った。 静が杖を持たない達夫の手に触れると、達夫もその手を繋いでくる。 手を繋いで歩くことで、自分のヒールの音も、カナカナという声と達夫の白い杖の音と共に、夏の終わりを奏でることができるのだと思いながら、静は呟いた。 「次の夏の終わりも一緒に奏でようね」 心から零れた祈りのような言葉に、繋がれた手を達夫が強く握ってくれた気がした。 次の夏も、 その次の夏も、 その次の夏も、 蜩の声と、達夫の杖の音と、自分のヒールの音で奏でられるリズムの中で終わりますように。 ひとつひとつの季節を、静は祈りの中で過ごす。達夫には伝えないけれど、静の中ではどの季節にも祈りがあった。 夕焼けが近づいて薄い茜色に暮れ始めた中で、カナカナという声が少し元気になる。 空の色の変化を教えてくれる蜩の声を聞きながら、達夫は繋がれた静の手をもう一度強く握る。コツコツというヒールの音が、少し元気になったような気がした。 蜩の声と静のヒールの音を聞きながら、杖の音がもし無くても美しいハーモニーじゃないかと達夫は思う。 夏の終わり。 夏の終わり、蜩と静のデュエットで奏でられる音は切なく響くのだろうか。 その音を空気に溶けた存在となって聴くまで、あと何回こんな季節を迎えられるのだろう。 蜩の声を聞けるのだろう。 こうして二人で歩けるのだろう。 一抹の不安が風のように達夫の体を吹き抜けた。 「座らなくていい? 疲れてない?」 自分が一瞬抱いた不安を悟ったように言った静の手を、達夫はもう一度握りしめる。 次の夏も共に迎え、共に終わりの切なさを感じよう。そんな気持ちを込めて 「大丈夫だよ」 と答えた声音の後ろで、カナカナという声が、時々風に揺らぎながら響いていた。 ◆ 蜩の声に自分の靴音を合わせて歩きながら、達夫のことを思い出す静の頬を、夕暮れの温い風が優しく触れるように流れていく。 達夫がいない最初の夏も、ただ暑かった。 9月に入ってからは、天国への道標のように山際から青空に向かって浮かんでいた入道雲の姿をもう見ることはない。 鱗雲の姿を見るまでの僅かな時間、夏は去りゆく切なさを覗かせる。 達夫は最後まで「忘れないでほしい」と言わなかった。 蜩の声に(とき)が送られていく。 彼らの声に合わせてコツコツとヒールを響かせながら、静は記憶の欠片たちを心のアルバムに整理していく。 「忘れないけれど、前を向くから」 音になった呟きはほんの一瞬、蜩と静のデュエットに混ざり、溶ける。 「あなたがいない、夏の終わり・・・」 続きの言葉を探して佇んだ静の横を、缶蹴り鬼で見つけてもらえなかった缶が、カコロンカコロンと音を立てて転がって行く。 見えない風に奏でられるように。 夏の終わりに。 〈fin〉
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