砂の男

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ーー母は遅くして産んだ唯一の子供として自分を溺愛していた。母は話し好きで、明るく、町内会やPTAにも積極的に参加するような、社交的な人間だったが、同時に思い込みが激しく、一度感じたことや考えたことを盲信するきらいがあった。5才の時、近所で一番大きいショッピングモールに併設されたゲームセンターに母と行った。そのゲームセンターは黄色が鮮烈で、あらゆる筐体が黄色に塗られていたが、メダルゲームだけは真っ黒だった。メダルゲームの面白さはよく分からなかったが、その特別な空間が好きでメダルゲームを選んだ。母は僕が幼くしてギャンブル好きの気質があるのではないかと内心心配していたと思うが、優しくそれに連れ添ってくれた。  遊び終わると、遊んだ分だけカウンターで現金を支払う仕組みだった。夏の終わりの初秋のころだった。母は黄色いジャンバーに青いジーンズを着ていた。店員から料金の説明を受けている間、僕と母は横並びだった。ジャンバーの右ポケットに100円玉をいくつか忍ばせていて、小銭はそこから払うのを僕は知っていた。その日は唐突に、「母さんを驚かせたい」と思った。好きでもないメダルゲームに付き添ってくれたことへの、自分なりのお礼がしたいと思った。 「合計800円になります。」  ゲームセンターの店員が勘定をするわずかな間、僕は隣にいる母親の右ポケットに手を忍ばせ。9枚しかない100円玉のうち、3枚を手のひらに隠した。いつも通りポケットに手を伸ばして、母は異変に気づいた。少し驚いてくれたらいい。「母さん、これだよ!」と言って、すぐにお金を返してあげれば問題ない、と。そう思っていたが、母は僕が想像するよりはるかに驚いていた。信じられないといわんばかりに、全身をまさぐって小銭を探し出した。「ない......! あれ......ない! ない!!」その時の顔が見たことのないくらい強ばっていて、店員は心配そうな表情を浮かべた。すぐに財布を出すと思っていた。僕は急に怖くなって握りしめた小銭を母のポケットに返した。自分は何かとんでもないことをしてしまったのではないかという思いから、僕の顔も強ばってしまった。母はこちらを見た。冷たい目だった。母は無言で現金を支払うと、それから一言も発さずにその場を立ち去った。「お母さん! ごめん! ごめんなさい!」と僕は謝った。母は一切振り向かなかった。一緒に家まで帰ろうと、僕は母の後ろをついていった。歩きながら僕は謝り続けた。多分、泣いていたと思う。母は一言も口を利かず、あろうことか道中にある全ての信号を無視した。その間、やはり母は無言だった。家に着いても状況は変わらなかった。僕は謝り続けた。それから1週間、母は一切僕の話に応じなかった。時々電話をとると、空間が変わったかのようにいつも通りの明るい声色でよく喋った。僕に対しての反応だけが違うのは、明白だった。この時、身体の内側が乾いていく実感を、僕は覚えていた。内側から乾いていって、居ても立ってもいられないが、何をしてもその渇きが止められない。そのうちこの渇きで血管から血がなくなって、干からびて死んでしまう気がした。1週間が経ち、朝起きた時に聞こえる母の「おはよう」で、その渇きはピタリと進行を止めた。安心した。けれどもう2度と、元の母親との関係には戻れないと思った。
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