砂の男

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ーー「関東や東北の太平洋側では気温の上昇が早くなっています。昼過ぎにかけて気温はさらに上がる見込みで、東京の予想最高気温は38℃と今年一番の暑さとなる可能性があります。さいたまは38℃、前橋は39℃、横浜は37℃の最高気温が予想されています。体温を超えるような危険な暑さです。こまめに水分をとり、熱中症には十分お気をつけてお過ごしください。」ーー  渋谷スクランブル交差点の信号を待っている間、交差点の大型ビジョンに映しだされた気象予報士が、今日が記録的な猛暑であることを警告している声が聞こえる。茹だるような暑さが全身を湿らせ、シャワーを浴びていない夜勤明けの身体は、皮脂が発酵した酸っぱい匂いを漂わせている。道路を挟んで向こう岸では、山手線を降りたであろう人々がハチ公口から次々に流出し、密集の度合いを増していく。今からあの密集が200°に拡散して放出される。  その放出に、突入するようにして自分はハチ公口側に歩き出すのだ。自分ほどではないが、この熱気の中、彼らの身体も同様に汗ばんでいるに違いない。そんな想像をしているうちに、この暑さも、この匂いも、ここで会う人々の組み合わせも、今この瞬間しか存在しない唯一のものだという実感が込み上げてきた。  車両用信号が赤に切り替わり、いざ信号を渡ろうと前を向いたその時、前方に異様な風貌の男を発見した。男は、帽子からつま先まで、黒で統一された紳士風の装いをしていた。サングラスをかけ、口元を白いガーゼマスクで隠し、肌の露出を極限まで抑えているようだった。うっすらと、白味がかっている部分が見える。  信号が青に切り替わる。人が一斉に道路に流れ込む。僕は、正面にいるその男から逃れることなく、まっすぐ歩みを進める。むしろ、その男に近づいてやろうと思っている。今ここが、唯一の瞬間が、刻一刻と変化し続けている。その瞬間をより強く感じるために、流れる時間を切断するように存在するその男に興味を持った。  同時に、男もこちらに近づいてくる。白味がかっている部分が全て砂であると気づいた。コートの隙間から帽子のつばまで、全身に砂を張り付かせている。異様だった。どこから来たのか?暑くないのだろうか?きっと解決しないであろうありきたりな疑問が頭の中にちらついた。歩くたびに、砂が服の隙間からこぼれ落ちている。さらさら、さらさらと、音の無い音が聞こえてくるようだった。そんな音があったら、どんなに綺麗だろうと思った。  横断歩道の中腹で、その男とすれ違う。男はまっすぐ歩いていた。僕もまっすぐ歩いていた。不思議と、恐怖はなかった。彼の身に張り付いた砂の量が想像以上だと思った瞬間、彼の砂が右の手の甲に触れた。
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