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ーー熱い。
熱いというより、痛いだと思った。往来の中、僕は横断歩道の中腹で歩みを止めた。振り返ると、男の姿はなかった。見ると右の手の甲は赤く腫れあがっていた。傷口は見当たらない。火傷のようだった。加速する心音の数倍のスピードで、痛みが腕全体に拡がる。震える声帯から「痛い」という声が漏れた。その瞬間、僕は一切の考えが頭の中から消え去っていくのがわかった。ただ「痛い」という感覚だけが頭の中にあった。徹夜明けの身体の内側の渇きが、火傷の跡から流れ出ていくのを見た。それは砂だった。
急に静かになる。
気がつくと、周りにいた人々は消えていた。渋谷には、誰もいなかった。
代わりに正面にあの日の、黄色いジャンバーを着た、母が立っていた。
母は柔和な笑顔でこちらを見ていた。
母のポケットは膨らんでいた。僕は火傷した手をもう一方の手で抑えていた。
あの日も、両の手が塞がっていたらよかったのだろうか。
僕ははにかんだ笑顔を浮かべた。
次の瞬間、母は消えた。
僕は横断歩道を渡り終えた。
アオガエルの車両に反射する自分の姿を見た。
ーー僕は、あの日の母の姿をしていた。
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