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確かに、舘くんが普段仕事で接している香田課長はとても穏やかで優しい人だ。彼が声を荒らげたり、不機嫌になって部下を威圧したりするのを見たことは今のところ一度もない。何か問題が起こっても担当者を頭ごなしに叱るのではなく、まず最初に冷静に理由を聞いてくれる。それで、その理由にちゃんとした理屈が通っていれば、どんな深刻な問題であっても感情的にならずに受け止めてくれるから、部下としては仕事のやりやすい上司だった。
ただ、少しだけ頑固なところがあって、一度自分が正しいと思ってしまうと、なかなか自分の考えを曲げない時がある。たまたま運悪くそういう変なスイッチが入ってしまうと、例えば出口から人がドッと出てきているのに、人の流れに逆らってでも強引に出口から中に入ろうとするみたいな、そういう少しだけ厄介なところが香田課長にはある。
でも、それはあくまで変なスイッチが入った時だけだ。誰にだって欠点はある。香田課長はいつも新入社員の舘くんのことを気遣ってくれて、失敗したらその点についての注意はするけど、失敗した理由を確認して改善方法を決めたら、それ以上は不必要に責めることはない。他部署から文句を言われた時でも、ちゃんと舘くんのことをかばってくれる。
だから舘くんの中での香田課長は、ちょっと時々面倒な時はあるけど、その点にだけ気を付けていれば基本的には話の分かる優しい上司だった。舘くんは、社会人になって最初の上司が香田課長で良かったなと心底感謝していた。
まして今日、ゲームオタクという自分に似た課長の一面を新たに知り、香田課長に対する好感度はぐっと上がった。
こんな優しくて理解のある旦那さんに、奥さんは一体何が不満だというのか?
香田課長のぼやきは続く。
「それなのにさ、何の相談もなく、人の大切にしてたもんをいきなり売っちゃうとかさ。心底ありえなくないか?ホント何考えてんだか、さっばりわけわかんねえんだよ」
マジ分かんないすね、と舘くんは何度も首を縦に振った。
奥さんにどんな言い分があるのかは知らない。でも、どんな言い分があったとしても、何の相談もせずに無断で他人の持ち物を処分するというのはかなり異常なことだ。舘くんは香田課長が可哀想でならなかった。
「ホント、なんでまた課長の奥さん、突然そんなことしちゃったんですかね?」
「そうなんだよ。今までは全然そんな奴じゃなかったのになぁ……」
「前兆とか、本当に何もなかったんですか?本当にいきなり?」
舘くんの質問に、香田課長は遠い目をした。
「んー。まあこのゲームコレクションの趣味は、もともと昔からずっと嫁さんと俺の間の揉め事の理由ではあったんだよ。大学時代に付き合ってた頃の段階からね」
「でも、それでも今までは全く問題なくやってたわけじゃないですか」
「まあね。そこはさ、結婚前にちゃんと徹底的に話し合ってるよ当然。付き合ってた時から嫁さん、俺が一人暮らししてたワンルームに何度も遊びに来てるしさ。
で、俺の部屋の半分くらいをゲームの棚が占拠しちゃってるの見て、最初はドン引いてたけど、そういう趣味だから仕方ないよね、って納得してくれてたんだよ当時は」
「あ、奥さん、結婚前から課長の趣味のことはご存知だったんですか」
「そう。よく知ってる。よく知った上で結婚してんだって、そもそも。
いざ結婚するって段になった時にもさ、俺は結婚した後で揉めたくないから、『俺は古いゲームを集めるのが趣味で、結婚したからといってこの趣味を止めるつもりはないし、どうしても止めろというならお前と結婚はできない』って何度も何度もはっきりと宣言してんだよ。で、それに嫁さんも『うん』って何度も了解してんだ」
舘くんは目を丸くした。それじゃどう見ても、奥さんの方が頭がおかしい。
「えーっ!それじゃ課長はちゃんと、奥さんに対して筋を通してるじゃないですか!
だったら、今さらその約束を破るのは、どう見ても奥さんの方が悪いですよね!」
香田課長はドンとジョッキで机を叩いた。
「そうなんだよ!俺はさ、大洋に文句言われるんなら分かるんだよね、まださぁ」
「大洋?」
「あー、ゴメン。息子ね。いま高二なんだけどさ。
もう今、バリバリ反抗期の真っ最中よ。大変だよ高校二年生」
「まあ、その年頃だと親には反抗したいでしょうからね」
舘くんも、つい五年ちょっと昔には自分も同じ年頃だったわけで、香田課長に文句を言う息子の大洋くんの姿は容易に想像がついた。
「あの年頃の子供なんてさ、こっちから話し掛けても『ああ』とか『うん』とかしか答えなくてさ。ほとんど口もきかないくせに、その割に何か言いたそうな目でじっと俺のことを見てんだよね。何かあったらハッキリ言えばいいのにさ。
こっちとしたら、黙ってたらアイツが何考えてんだかさっぱり分かんねえし、何か不満があっても何も対応しようがねえからさ、問題あってもどうしようもないんだよ」
「大変ですね課長も」
実家にいた頃の自分に文句を言われているみたいで、舘くんは少し肩身が狭い思いがした。
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