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舘くんは、顔を見たこともない香田課長の奥さんのことが、だんだんと人間の心を持たない悪鬼羅刹のように思えてきた。酔いにまかせて会話はどんどん加速する。
「逆に課長の奥さん、課長のゲームソフトのことをガラクタだと思ってんじゃないですか?」
「あー。ありうる。なんでゴミみたいな子供のおもちゃをわざわざ金出して買ってんだよ、いい歳してバカじゃねえの、とか思ってそう」
「全然ガラクタじゃないんですけどね」
「そうだよ。他人にはガラクタに見えるものだって、その人にとっちゃ宝物なんだよ」
「ゲームってその点、特に肩身狭いですよね……」
「そうなんだよ。最近じゃ大人でもゲームする人がかなり増えてきたからだいぶマシになったけどさ、ファミコンなんて未だに子供のおもちゃ扱いだもんな……」
「俺の好きなアニメもそうですよ。興味のない人からは気持ち悪いゴミ以下の扱いですから……」
「そうだろうなぁ。何となく分かるよ」
「自分にとっては何の価値がなくても、持ち主にとってはかけがえのない品かもしれないとか、そういう風に他人の心情に思いを寄せる想像力が働かないもんなんですかね?」
「働かなく、なっちゃうんだろうなぁ……」
香田課長は酔いで真っ赤になった顔で、テーブルに両肘をついてうつむいた。寂しそうな、申し訳なさそうな、悲しい目をしていた。
舘くんは、そんな香田課長の気の毒な姿を見て、ふつふつと怒りが湧いてきた。香田課長の奥さんは、この優しい人の純粋な心を踏みにじったのと同じだけの報いを受けなければならない。そうでなきゃ俺は到底納得できない、と思った。
舘くんは若くて独身だ。今まで付き合った彼女もその期間は最長で一年程度で、あまり長続きしたことがない。
そのせいだろうか。舘くんには、十七年以上連れ添った夫婦の中に沈殿している、言い争いとあきらめに似た歩み寄りがミルフィーユのように何枚も何枚も積み重なってできた分厚い層の厚みと重さに関しては一向に考えが及ばない。どうしても、目には目を、やられたらその分やりかえすのが当然、という分かりやすい発想になってしまうようだった。
「課長それ、本当に奥さんに何も言わないで泣き寝入りしちゃうんですか?」
「さんざん言ってるよ。ふざけんなって。ケンカもしまくってる」
「それで反省してるんですか、奥さん」
「全然。あれは自分が悪いとはちっとも思ってないね」
「そんなんでいいんですか課長は?許せなくないですか?」
「許せないよ。でも仕方ないじゃん」
「ええ~。俺だったら絶対に許さないなぁ、そんなの。即離婚しますよ」
「息子もいるしね。我慢してやってくしかないよ」
「でも、そうやって我慢して不満溜めこんでたら、いつか爆発しちゃいません?」
「意外と何とかなるもんだよ。まあ、不満もあるけどさ。あっちにはあっちの言い分があるし、自分の意見だけ言ってても不毛だしね。そんなもんだよ」
「そんなもんですかね」
舘くんは、いつか香田課長が勇気を出して、奥さんが大切にしている無駄に十万円とかする馬鹿馬鹿しいカバンを、ブックセカンドに無断で売ってくれないかなぁ、と痛快なシナリオを夢想して溜飲を下げた。
そうやって自分も同じ痛みを味わって、ゲームソフトを売られた課長がどれだけ悲しい思いをしたかを奥さんが自分の身をもって理解して、それで初めて二人は対等な夫婦関係にもどれるんじゃないだろうか、と舘くんは考える。
どうして課長はそうしないんだろう?と、舘くんは不思議にも歯がゆくも思う。
奥さんに酷いことをやられたんだから、課長には同じくらい酷いことを奥さんにやり返してもいい正当な権利があるはずだ。ここで奥さんにやられっぱなしで終わって、何もやり返さないまま終わってしまったら、今後の夫婦関係、ずっと奥さんになめられ続けちゃうだろ。
それって長い目で見たら逆に良くないことだよな。結婚なんてのはある意味、夫婦のどちらかが死ぬまで続く限りなき戦いなんだから、時にはガツンと、言うべきことをストレートに言って、相手にきちんと理解させてやるのも大事なことじゃないのか。
だって、お互いの好みをを尊重して、相手の持ち物を無断で処分しないなんて、そんなの子供だって分かる必要最低限の常識じゃん。
そんな最低限の常識すら破ってくるような相手と、その先の人生で信頼感を保ち続けられるわけないじゃん。遅かれ早かれ破綻するに決まってるよ、そんな夫婦関係。
俺、将来自分が結婚する時には、課長みたいには絶対にならないようにしよう。
嫁さんの尻にしかれて、会社でもペコペコ、家でも嫁さんにペコペコ。
そんな屈辱的な人生は、俺は絶対にごめんだ。
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