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「だからさ私、学費のことでひたすら押し切ったのね。『今の給料でもやっていけなくはないけどさ、余裕はあまりないでしょ?』とか『これから大学受験に向けた予備校通いが始まるし、あと入学後の大学の学費のことを考えたらさ』とか言って。やっぱそれが一番効いたわね」
文は、へー、頑張ったのねかすみ、と小さく拍手するジェスチャーをした。
かすみと文の雑談の中で、香田家の夫婦ゲンカの話はよく出てくるが、彰は要領が良くていつもポンポンと機関銃のようにテンポよく言葉が出てくるのに対して、かすみは感情が先に立つとそれが脳の回転を妨げて言葉に詰まってしまう。だから毎回、議論はどうしてもかすみの方の分が悪い。この時はかすみにしてはかなり善戦した方だといえた。
「まあでも、ここまではまだまだ序の口。シフトを増やすこと自体は、学費を楯にすればなんとか押し切れるだろうなって、自分でもまだ自信あったからさ。
それで、ここからが私にとっての本番。私は、これをいい機会にして家事の分担の見直しをしようと思ってたの。私、なんとかして夫に部屋の片付け係をやらせたかったんだ」
文は不思議そうな顔をした。
「片付け係?家事の分担だったら、別に洗濯係でも食器洗い係でもよくない?」
文もパートで仕事をしていて、かすみの家と状況は似ているが、文の家では文が掃除と片付けの係をやっていて、夫には他の家事を分担してもらっている。
文のその言葉に、かすみはハッと何かに気付いた顔をして、「そうよね、確かに別に他の家事でもよかったのよね……」と一人でその指摘を繰り返した。そして
「たぶんね、やっぱり私、夫に自分の苦労を分かってほしかったみたい」
とボソッと言った。
「だって私さ、家の中で何やるにしてもさ、いつも片付けの手間を頭の片隅に置いて動いてんのよ。『あぁ、これやりたいけど後で片付けが面倒だな』とか『後で片付けが楽になるように、これはこうしておこう』とか。そうしとかないと後で自分が面倒になるからね。
でも、夫にはそういうのは全く無いわけ。何も考えずにゲームを引っぱり出してきて、好きなように遊ぶだけ。後のことなんて一切考えない。
そりゃ当然よね。だって自分で片付けなくていいんだもん。どんなに散らかしても私が片付けてくれるんだもん。散らかしても自分が一切損しないんだから、後で片付けが楽になるように行動しようなんて、絶対に思うはずがないんだわ。
私だって、もし我が家にお手伝いさんがいて、出した物を全部片付けてくれるなら、何かやる時に、いちいち後片付けのことまで考えたりなんかしないもん。たぶん私、夫のそういうとこに腹が立ってたんだと思う」
「あー、わかるわかる」と文は笑った。確かに、かすみのように毎度毎度ではないけど、文も時々、片付けが面倒という理由で自分のやりたいことを断念することはある。
「確かにフミちゃんの言う通りでさ、夫にやってもらう家事は、別に洗濯でも食器洗いでもいいのよ。でも、私はどうしても片付け係をやってもらわないと気が済まなかった。
夫が片付け係をやって『あぁ、実は今までかすみが見えない所で片付けをしてくれていたから、我が家は暮らしやすかったんだな』って実感してくれて、それで毎日ちょっとだけでも私の苦労を想像して気遣ってくれれば、私はそれでよかったんだわ」
自分の中にモヤモヤと漂ってはいたが形になっていなかった気持ちが、文に愚痴を言うことで整理されて言葉になり、かすみはパアッと心の霧が晴れたような明るい顔になった。
さらに文は尋ねた。この場で友人の溜まった不満を全部吐き出させてやらねば。
「その口ぶりだと、彰くんは片付けの分担は引き受けてくれなかったんだ」
「ううん。引き受けてはくれた」
「え?それだったら良かったじゃない。それなら彰くんも、かすみーるの苦労を少しは分かってくれたでしょ。何が問題なの?」
「片付けの分担は引き受けてくれたけど、片付けはしてくれなかった」
かすみの説明はまるで禅問答だ。文にはさっぱり意味が分からない。
「え?何それ?……それ文句言わなきゃじゃん。仕事の分担サボっちゃだめだよって。
でもちょっと意外。私の中で彰くんってさ、決めた事はキッチリ守るタイプってイメージだったんだけどな」
同じサークルだった大学時代から、彰はとにかく何事にもすぐルールを決めたがる人だった。どっちが正しくてどっちが悪いか、基準がはっきりしてないと何となく落ち着かないらしい。少し面倒な性格と言えなくはないが、一旦ルールを決めたら相手にも守らせるけど自分も絶対に破らないので、その点はフェアだし、基本的にはちゃんとしてる人だと文は思っていた。
「分担のルールを破ってるわけじゃないのよ、夫の中では」
彰は、自分なりに片付け係の仕事を全力でやっていると真顔でいうのだ。
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