二.香田 かすみの夫、香田 彰の部下、舘 聖志

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二.香田 かすみの夫、香田 彰の部下、舘 聖志

 まだ月曜だというのに、香田課長が今夜飲みに行かないかと声を掛けてきた。  香田課長は基本的に人当たりのよい話しやすい上司だが、別に人付き合いが良い方ではなく、誰かに誘われたら飲みに行くけど、自分から誰かを誘うことはほとんどない。そんな香田課長が自分から飲みに誘ってくるなんてことはとても珍しかったので、誘われた舘くんはドキリとした。  その日はたまたま先輩社員たちが全員、出張や外出先からの直帰のため不在で、オフィスには入社してまだ二か月の新人の舘くんしか残っていなかった。これまでも課長と飲みに行くことは何度かあったが、それは必ず先輩たちが一緒にいたので、課長と二人だけのサシ飲みというのは今回が初めての事だ。  これはひょっとして、他の人がいる前では言えない、しかも酒が入ってなきゃ言えないような深刻な注意をしようと思って、香田課長がわざわざこのタイミングを選んで自分に声を掛けてきたのではないか?と舘くんが勘ぐるのも無理はなかった。  会社のそばの居酒屋に向かう途中、舘くんは「俺、何か怒られるようなことしたかなぁ……?」と最近自分がやらかした何個かのミスを必死で思い出しながら、首つり柱の前に連れていかれる死刑囚のような、生気の抜けた顔で香田課長と並んで歩いていた。  最初は「最近どうなの?」みたいな、他愛のない不自然に唐突な雑談から始まり、中ジョッキの二杯目が来た頃、香田課長が唐突に舘くんに言った。 「なあ舘くん。お前確か、オタクだったよな」 「あぁ?」と舘くんは本能的に身構えた。注意されるのはそこか!  舘くんの脳内が一気に臨戦態勢になる。中学・高校・大学と、彼はこれまでの人生で、アニメオタクだというだけで幾度となく心ない偏見や好奇の目にさらされ、「なんとなく気持ち悪い」などといって露骨に距離を置かれたり、からかいの対象にされたりしてきた。  だから、相手が自分の趣味の領域にずかずかと踏み込んできた時に、いかに上手に相手の偏見をかわし、的確で鋭い言葉で切り返すか、舘くんは普段からイメトレを欠かさない。  ――でも課長。オタクっていうと空気を読まずに一方的に自分の趣味の話しかしないとか、身なりに気を遣わないとか、世間的にはそういう変なイメージが定着してますけどね、俺は社会人として、自分がそうならないようにいつもすごい気を付けてますよ。  そりゃ、そういう世間のイメージ通りの気持ち悪いやつも一部にはいますけどね、でも、俺はそういうのとは違いますから。  それに最近は俺みたいに、見た目はごく普通だけどアニメオタクな人とか、アニメ好きの芸能人とかも結構増えてきてるんですよ。アニメは大人が見ても十分楽しめる立派な娯楽なんだって、最近だいぶ市民権を得てきたんだと思います――  もし課長が悪意のこもった言葉を吐いてきたら、即座にこう言い返してやるんだ。  舘くんは心の中で完璧な返答を準備して、課長の次の言葉を待ち構えた。  ――だいたい、なんで会社の人から自分の趣味のことまであれこれ言われなきゃいけないんだ。そんなの個人の自由じゃないか。もし自分のプライベートにまで土足で踏み込んでくるような、昭和みたいな古臭い雰囲気の会社だったら、入社してまだたった二ヶ月ちょっとだけど、とっとと見切りをつけてすぐ辞めてやるからな――  舘くんは課長のたった一言から、一瞬でそこまでの覚悟を決めた。場合によってはこれが香田 彰課長との最後の戦いになるかもしれないと思うと、一瞬で酔いが醒めて、全身の毛穴がキュッと引き締まる。  だが、香田課長の質問はそういう意図ではなかった。
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