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弐
幾度となく「慶覚に行かせばいい!」「幾松に!」という志童の提案は悉く琉に無視されて、とうとう当日を迎えてしまったのである。
が、この期に及んで志童はまさかのチャイムを押す前にすでにこの有様である。
ラノアールの一席。
ちらりと時計を見た琉が立ち上がり志童を促す。
「そろそろ行かないと、本当に遅刻してしまいますよ。仮にも尊様の代理なのですから、それは避けなければなりません」
「わぁーてるって・・・・」
渋々立ち上がった志童の身だしなみを琉が素早く直した。
「では、参りましょう」
志童は大きなため息をつきつつ、とぼとぼと琉の後について歩いた。
どんなに早く歩いても、飯野家からラノアールは近い。
あっという間についてしまった。
今度は志童ではなく、琉がインターフォンを押した。
「はい?」
インターフォンの向こうから初老と思しき女の声がした。
「庵野雲ともうします。本日はお招きいただきありがとうございます」
「少々おまちください」
そう言ってインターフォンが切れると、目の前の門が自動でガシャンと音を立てて開いた。その後ですぐに、玄関から先ほどインターフォンに出たと思われる女が顔を出して琉にむかって一礼をした。
「これはこれは庵野雲様、ようこそおいでくださいました。ささこちらへ」
どうやら志童と琉を間違えているようだ。
しかし、志童はそんなことはどこ吹く風である。
むしろ、その方が自分は楽でいいと思っている。
中は西洋風で靴は履いたままだった。
広い玄関ホール中央には2階へと続く階段がある。
左右にはいくつか扉があって、中は大広間で繋がっているようだった。
「今お嬢様を呼んでまいります」
そう言って女は1階の奥に姿を消した。この家のメイドらしい。
「あーぁ・・・やっぱり来るんじゃなかった・・・・」
「志童様、まだ挨拶もすんでおりませんよ?」
「あぁ・・・・」
「どうか只今より数時間で結構ですから、気合をおいれくださいませ」
「へーへー」
立って互いの目を合わさないまま志童がいつものように琉に窘められていると、奥からひとりの女が現れた。その後ろには先ほどのメイドもいる。
年のころなら、20代前半だろうか。
志童よりもやや若く見える。
「尊さんのお友達の方ね!よくお越しくださいました」
そう言って笑みを向けたのは、招待状の送り主である飯野香澄だった。
「今日は尊が来られなくて申し訳ありません。私は尊の友人で庵野雲志童です。こちらは私の秘書で_____」
「琉と申します。本日はお招きありがとうございます」
琉が折り目正しく腰を折った。
そこで初めて自分の間違いに気づいたメイドが主人の背後で目を丸くして口元を覆っていた。
「まぁ、庵野雲と仰ったかしら?もしかして____」
「えぇ、父は全国に飲食店を展開しておりますが、まぁそちらは兄と姉が継いでおりますので、私は比較的自由の身なのですよ」
実際は比較的・・・どころではない。
完全なる自由人なのだが、尊の手前そういうわけにもいかない。
「そうでしたのね!あっ、そうだ。両親を紹介いたしますわ」
そう言って香澄は今回のパーティー会場である玄関右の扉を開けた。
扉が開くと同時に、美味しそうな匂いが志童の鼻腔に届く。どうやらビュッフェ形式になっているらしく、すでに様々なメニューが設置済みだ。
「お父様、お母様」
そう言って入り口近くにいた夫婦に香澄は声をかけた。
「甲斐尊さんの代理で来てくださったのよ。庵野雲志童さんとその秘書の琉さんよ」
香澄の言葉を受けてにこやかな笑みを浮かべたのは父親の飯野庄吾だった。
母親の方はまだ背を向けたまま、他の招待客の相手をしていた。
「始めまして。庵野雲志童と申します。今日は友人の尊がどうしても都合がつかなくて、代わりに私が馳せ参じたという次第です」
「あぁ、聞いているよ。尊君はニューヨークに行っているそうだね。向こうにまた新しいホテルを建設するとか?」
「えぇ、そのようですね」
「甲斐グループもあの尊君が後継者なら、安泰だねぇ。って、君・・・庵野雲って・・・・」
「そうよ、お父様。志童さんはあの、庵野雲グループのご子息なんですのよ」
志童よりも先に、香澄が言った。
「そうか、私も桜丞君には何度かお会いしたことがあるよ」
「あぁ、兄ですね。まぁ私は兄と比べたらかなり出来の悪い弟ですが・・・本日はお招きありがとうございます」
志童が早々にこの長い挨拶という名の社交を終わらせようとした時であった。
それまで背を向けていた母親が振り返り、志童と目を合わせた。
___え?
思わず生まれた違和感。
彼女は香澄の母と呼ぶには若すぎた。
どう見ても、志童と同年齢にしか見えない。
「あぁ、紹介します。妻の杏子です」
庄吾の言葉に合わせて杏子が頭を下げた。
「えっと・・・あぁ、失礼。庵野雲志童です」
慌てて挨拶をする志童を見て香澄がクスリと笑った。
「志童さん、はっきり仰っていいのよ?お母様にしては若すぎるって」
「えっいや・・・・私は別に・・・・」
慌てる志童をよそに、香澄は楽し気だった。
「ねぇ、志童さん。今日はお母様のお誕生日でしょ」
「あぁ、そうでしたよね」
志童が慌てて杏子に向かってお祝いの言葉を言おうとした時だった。
「違うわ、志童さん。今日がお誕生日なのは私の本当の母です。紹介しますね」
そう言うと、半ば強引に志童の手を引き香澄は会場の中へ入っていった。
そうして会場の正面に大きく飾られたパネルを見て志童は息を飲んだ。
「これが私の母の希世乃です」
「あの・・・・これは・・・・」
志童が戸惑うのも無理はなかった。
希世乃と紹介された香澄の母は写真パネルが飾られているだけなのだから。
「母は2年前に亡くなりましたの」
香澄は何でもないことの様に言った。
「あのっ・・・・いえ・・・そうですか。本日は・・・お誕生日おめでとうございます」
死人の誕生日など聞いたことがない。そう思いつつも戸惑いをひた隠しにして志童はパネルに向かって頭を下げたのだった。隣にいる琉も同様に頭を下げている。
香澄はそんな志童たちの様子を満足そうに見ていた。
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