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第三章 4、真実
坂を下りきり、車へ向かって歩き出したとき。
車の向こう、フェンス越しに、黄色いベンチに座っている女性がみえた。ふくよかな中年女性で、傍には小学校中学年ほどの男の子がいる。二人とも厚手のコートを着込んでおり、大きな画板と鉛筆で、分校を写生していた。
微笑む女性の視線は、少年に向けられている。
慈愛に満ちた瞳に、私は胸を服の上からかきむしった。
「あれは、玄奘さんのところか」
「ゲンジョウさん?」
「ああ。同じ寺の檀家でな、上地区のほうで暮らしている人だ。……あそこも、大変だったらしい」
「何が、ですか」
「娘さんが、行方不明なんだ。もう、十五年ほど前か」
私の視線は、女性に固定されたまま。
先生の声だけが、坂をくだる流水のように、頭の中に入ってくる。
「ちょうど母が蒸発した時分でな、犠牲者の一人じゃないかと捜索もされたが、結局遺体は見つかっていない。母は、近隣から犠牲者を出さなかったから、別件の事件として処理されたようだ」
「あの近くにいる男の子は」
「彼女の息子さんだ。ずっと娘だけを想ってたらしいが、次の子どもを作ろうと、夫婦で話し合ったらしい。前を向いて生きていくんだと。……あの子も、もうあんなに大きくなったんだな。最後に会ったときは、まだ幼稚園だったのに」
私は今、どんな顔をしているのだろう。
視線は、ただただ、二人の親子を見ているのに、心のなかはぐちゃぐちゃで気持ちの良いものではない。だが、不愉快なものでもなかった。
「幸せそうですね」
「ああ。娘が行方不明になって、一度は家族が壊れかけたらしいが、それでも、前を向いて生きている。すごい人たちだ、本当に」
ふと、少年が画板に挟んでいた画用紙が、風で舞い上がった。しっかりと止めないからだ、と隣で先生が呆れた声で言う。「こうきっ!」女性が、少年を呼ぶ。少年は飛んでいく画用紙を追いかけて拾うと、「ごめん」と母親の元へ歩いて行った。
先生と私は、もとの車に乗り込んだ。
ゆったりと車が動き出して、私の視界から親子の姿が消える。
幸せそうだった。
とても。
あの親子は、今日初めて会う人で、私の全く知らない人だ。
けれど、おそらく――。
「ホテルまで、少しかかる。疲れたのなら、眠るといい」
「ねぇ、先生」
「む?」
「どんな過去があっても、今が幸せなら、十分だと思うんです」
先生は、沈黙ののち。
「そうだな。……その通りだ」
と、同意をくれた。
***
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