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第三章 5、呆気ない終わり、そして、はじまり
「先に戻っていてくれ」
古都奈良。
懐かしい餅井殿商店街のアトリエへ戻ってきたのは、出発からわずか二日後だった。
先生は、電話一本実家に入れるだけにとどめて、二度目の帰宅はしなかったのだ。それでも真っ直ぐに帰るのは勿体ないので、二日目は、ゆったりと先生が育った街を見て回った。
遊んだという公園や秘密基地があった竹藪、よく行ったという駅前のスーパーや本屋なども見て、先生の過去へ少しだけ触れることができたことが嬉しかった。
先生は、私を三条通りの猿沢池近くで降ろし、先ほどの一言を告げてから、車を止めるために駐車場へ向かった。
先に、鍵と旅行バックをもってアトリエへ帰宅した私は、たった二泊三日の旅行だったのに、長い間留守にしていたような感慨深さを覚えて、帰ってきたという気持ちにほっこり胸を暖めた。
玄関を過ぎて、先生の作業場を軽く眺め、休憩室へ荷物を置いたとき。
「おかえり」
聞き覚えのある低い声。
全身がしびれたようにこわばり、冷水を浴びたかのような寒さに襲われる。
この声音は。
「なんだい、電話越しでないと私がわからないのかな? 渡月」
十数年、電話で毎朝聞き続けた男の声音が、すぐ後ろからした。おそらく、作業場のどこかにいたのだろう。
頭に固いものが触れる。恐怖で身体が跳ねると、肩に手が置かれた。頭を撫でながら肩に手を置く男の優しさのない機械のような手が、男の存在を気のせいではないと否が応にも伝えてくる。
「ねぇ、渡月。私が誰だかわかるかい?」
「……おとう、さん」
「そうだね。ずっと渡月を見守ってきたんだ。私は、随分と頑張った。そうは思わないかい?」
肩に置かれた手に力がこもって、爪が食い込んだ。痛みから咄嗟に手を振り払って、男から距離を取る。
「……え?」
肩を押さえながら振り向いた私は、男の顔を凝視した。そこには、柔和に目をすがめる背の高い男がいた。顔のパーツ一つ一つは整っているが、キツネのようにずる賢い印象を受けるために、男前には思えない。
声は、確かに電話の男だ。私が、おとうさんと呼び続けていた、あの声に間違いはない。けれど、記憶の底に埋もれていた、由紀子さんの元へ訪れた青年の顔とはかけ離れている。まだ、青年の顔は思い出せない。だが、この男ではないことは、確かだった。
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