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教科準備室の机を挟んで、恵里菜と船越は向かい合っていた。船越は怒っているというより困った顔になっていたのだが、うつむいたまま顔を上げない恵里菜には確かめようがなかった。
──近藤はスマホを落下させてしまった後、何故かそこから立ち去ることが出来なかった。用を足した船越はそんな近藤を見つけると、「誰に頼まれたんだ?」と問い質した。近藤が黙ったまま何も言わなかったので、「藍衣先生やな?」と訊くと近藤は縦に首を振った。それで船越は恵里菜を呼び出したのである──
「一体どういうつもりや」
恵里菜は蛇に睨まれた蛙のようにじっと動けなかった。
「こともあろうに生徒を使ってあんなことさせるなんて、言語道断や!」
「……すみませんでした」
「全く……まあ、個人的に君がどんな趣味を持とうと、とやかく言うつもりはないがね」
「……趣味?」
「だから、その、性的趣向というのは人それぞれであるからして……」
恵里菜はそれを聞いて慌てて反論した。
「ち、違います! そんなつもりでやったんとちゃいますって!」
「じゃあ、どんなつもりやねん」
恵里菜は観念して船越に疑いの気持ちを持ったことを白状した。
「……というわけだったんです」
「なるほど、事情はわかった。そやけどやってええことと悪いことがあるで。曲がりにも教育現場におるんやったら、その辺のケジメはつけんと」
「はい、すみませんでした。でも船越先生は生徒をいじめたりしてませんよね?」
「アホ、当たり前やろ。そら、偶には生徒に厳しくすることもあるけどな、行き過ぎることのないようには気をつけてる。それに、あのFAX文書やと、一通目と二通目の間にイジメにあったて書いとる。俺はその間、生徒を叱ったり注意したことはないんや」
「本当に失礼しました。でもそうするとFって誰なんでしょう。船越先生、心当たりありませんか?」
「わからんな。しかし藍衣先生、この学校の正式な教員でもないのに、この問題に首突っ込み過ぎやで。もうこの件には関わらん方がええ」
そして恵里菜が退出した後、しばらくして船越も部屋から出た。その背後から風見教頭が声をかけた。
「船越先生、藍衣先生と何か打ち合わせですか」
「いえ、ちょっとした教育的指導をしていたところです。教師たるものの本分のような……」
「教育的指導ね……」
風見教頭はそうつぶやくと、何か考え込む仕草をした。
「あの、藍衣先生が何か?」
「ああ、別に何でもありませんよ。続けてしっかり指導して差し上げなさい」
「は、はい……」
去り行く船越の背中を目で追いながら、風見教頭は卒業生の久利三成男が訪ねて来た時に、交わした会話を思い起こした。
久利三君は藍衣さんと知り合いだったのかい?
ええ、ゼミで一緒で。
そうか、同じ大学だったね。
ところで彼女、さっき少し気になることを言っていました。
ん? 何だね。
『小島先生を知っているか』って。
何だって? どうしてそんなことを?
わかりません。ただ、気をつけた方がいいかと……。
そうだな。注意して見張っておこう。
(藍衣恵里菜、お前は一体何を知っている、ここで何をするつもりだ……?)
†
「はぁ、何か疲れたわー」
恵里菜が一人暮らしをしている自宅アパートの床に寝転がると、一気に疲れが襲って来た。そして毎週楽しみに見ているテレビの連続ドラマの時間までゴロゴロしていようと思った矢先、玄関のチャイムが鳴った。よほど居留守を決め込もうと思ったが、煌々と灯りがついていて在宅は一目瞭然だった。
そこで恵里菜は気を奮い立たせて立ち上がり、インターホンの受話器を取った。
「はい、どちらさまで」
「宅配便です。荷物をお届けに参りました」
「今行きます……」
恵里菜は印鑑を取り出し、玄関へと向かった。だがドアノブに手を掛けた時、ふと思った。「宅配便」というのは一般名詞であり、商号ではない。普通、配達の時は社名を名乗るものではないか。恐らく扉の外に立っているのは、あまり歓迎したくない種類の人間だ。
恵里菜は警戒して、咄嗟に開いた扉の背後に身を隠した。宅配業者を名乗る人物は何も言わない。しかし恵里菜は確かにそこにいる気配を感じていた。
ドアの外にいた怪人物は何も言わずに靴のまま部屋の中に浸入して来た。グレーの作業帽に作業服を着用しているのが確認出来た。帽子を深く被っていたため、顔はわからなかったが、声や容姿から女性であることは認識できた。しかし身のこなしから戦闘慣れしている様子で、迂闊に手を出せばこちらが危険だと思った。
(相手もこちらが警戒していることを悟った筈。向こうがほんの少しだけ隙を見せた時に取り押えるしかない)
怪人物も警戒しながら部屋の中を見渡す。一人暮らし用の部屋なので、さほど隠れるようなところはない。怪人物が窓のカーテンに手を触れた時、わずかに隙があるのを恵里菜は見て取った。
(今や!)
恵里菜は一気に飛び出した。そして取り押えようとした瞬間、スッと相手の姿が消えた。
(しまった! 罠か)
そう思う間もなく相手の足が目の前に現れて、次の瞬間鋭いかかと落としが恵里菜の右腿に突き刺さった。
「痛ァー!」
これで恵里菜は機動力と攻撃力を大幅に奪われてしまった。のたうち回りたい気持ちを奮い立たせて、相手の次の攻撃を何とか避けた。
取り敢えず先制攻撃に成功した怪人物は、ファイティングポーズを取って相手の出方を伺っている。恵里菜も構えて反撃のチャンスを伺い、両者は睨み合いとなった。格闘技の興行でこんな展開になればたちまちブーイングが飛ぶところだが、文字通りの実戦で互いに予断をゆるさぬ状況である。恵里菜としてはこの間に太腿のダメージを回復出来るので、この状況を少しでも引き伸ばしておきたかった。
だが、間もなく怪人物が仕掛けてきた。左ジャブの応酬。恵里菜の可動範囲を狭め、コーナーに追い込む作戦だ。その思惑通り、恵里菜は相手のパンチをブロックしながらも、ジリジリとコーナーに追い込まれて行った。
その時、恵里菜はパソコンのコードがちょうど敵の足元近くを這っているのに気がついた。うまく使えば相手の足に絡ませることができる。そう思った恵里菜は急激にしゃがみ込み、そのコードを掴んだ。そして巧みに敵の両足に絡め、渾身の力を込めて一気に引き上げた。そのため怪人物はうつ伏せに転倒し、その背中に恵里菜はかかと落としを食らわした。
「ぐはっ」
「さっきのお返しや!」
そして二度目のかかと落としが決まるかと思いきや、足を掴まれ倒されてしまった。それにもめげず、恵里菜は右腕を相手の喉元に巻き込み気絶させようとしたが、その腕を掴まれて、さらに相手の両足が絡んできた。
(や、やばい!)
そしてあっという間に腕挫十字固めを決められてしまった。
「い、痛ッ! アホー、腕折れるやろ! ギブ、ギブやー!」
その叫びが届いたのか、相手は力を緩め、恵里菜の腕を離した。そして深々と被っていた作業帽を取り、顔を曝け出した。
「……初めまして、藍衣先生」
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