Chapter1: Bottom layer

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 九部は日向が言ったことが忘れられなかった。 ──宍戸はずる賢い奴です。先生たちの目の届かないところで、しかも本人にもわからないようにイジメを実行するんです──  だとすると、表面的に何もしていないように見えても、何かを仕掛けている可能性がある。そのように警戒しているのは九部だけではなかった。恵里菜も、事情を聞いた教師たちも同じ気持ちだった。臨時職員会議を開き、隠密に宍戸と日向の両者を監視することに決まった。宍戸が少しでもおかしな動きを見せれば逐一報告するように、と風見教頭が念を押した。  今井彰子にも協力を仰ぎ、二年B組のグループチャットで妙な書き込みをするものがいないか随時チェックしてもらった。こうして、教師陣の間には異様にピリピリした空気がはびこっていた。 (とにかく十五日まで気を抜かないことだわ)  そのように神経を張り詰めている人々がいる一方で、クラスの大半の生徒たちはこれまで通り平穏に過ごしていた。むしろ山口や今井が目立ったことをしなくなったため、以前より平和になったと言っても良い。九部、近藤、今井から恵里菜は随時情報を得ていたが、これと言って目立った動きはない。宍戸の行動も常に交替しながら監視されていたが、何も変わったことはない。日向に対しても、特に何かをするわけではなく、かといって距離を取るでもなく、ごく自然に接していた。 (宍戸は本当に私の説得に応えてくれたのかもしれない)  恵里菜は徐々にそう思うようになってきた。そうして何事もないまま、いよいよ犯行声明の当日、十五日を迎えた。朝から職員たちは緊張のし通しであった。泉刑事も数人の私服警官を学園の随所にはびこらせた。そのような厳戒態勢の中、生徒たちは普段通り授業を受け、休み時間には遊んだり喋ったり、授業中に居眠りしたりした。本当に何事もなく、いつも通り一日が過ぎ去るものとそこにいた誰もが思った。……一人を除いては。  だが、昼休みになって異変が起こった。  昼食を終えて外へ行こうと思った生徒がドアを開けようとしたが、開かなかった。 「ねえ、このドア開けへんのやけど。誰か開けてくれへん?」  そこで男子生徒が数人ドアのところに集まり、開けようとしたが全く開かなかった。後ろの扉も同じであった。ちなみに廊下側の窓は手を伸ばしても届かない高いところにあり、そこからの脱出は不可能である。 「何? 私ら、閉じ込められたん?」 「とにかく外におるもんに連絡や」  その時、一人の生徒がスッと立ち上がった。日向甃也(いしや)だった。日向は悠々と自分のロッカーに向かい、中身を取り出した。それは5リットル入りのポリタンクだった。教室の生徒たちは日向が何をするのか、ただ見守っていた。すると日向は宍戸の前に立ち、その頭からポリタンクの中身をぶちまけた。その鼻につく匂いから、それがガソリンであることはすぐにわかった。そして日向はおもむろに制服の内ポケットからジッポーのライターを取り出し、高く上げた。その瞬間、「キャアーッ!」という女子生徒たちの悲鳴が教室中に鳴り響いた。  その時、教師たちが二年B組の教室の前に駆け付けた。 「日向、何をしているんだ! バカなことはやめなさい!」  船越がそう言うと、日向がため息交じりに言った。 「僕は再三忠告しましたよね。こいつのイジメを阻止するようにと。だけど、成果はありませんでした。約束通り、僕はこいつの死刑を執行します。もちろん僕自身のもね」  宍戸が努めて冷静に言った。 「イジメだって? 僕は藍衣先生に忠告されてから何もしていないだろう。単なる被害妄想じゃないのかい?」 「被害妄想……そうだよ、僕を被害妄想に陥れることが宍戸、お前の目的だったんだろう?」 「何をバカなことを」 「こんな話を聞いたことがあるかい? ある家で犬を飼っていたが、しつけが悪く、しょちゅう大声で吠えていた。その隣の家の住人はそのうるささが苦痛で苦情を言ったんだ。そして犬の飼い主はその苦情を受け入れ、プロを雇って徹底的に犬をしつけ、むやみに吠えないように訓練した。それ以来その犬は吠えることはなくなった。しかし隣人はいまだにその犬がいることが我慢ならず、とうとう犬の飼い主に再度苦情を言った。『もうウチの犬は吠えないだろう、何がそんなに不満なんだ』すると隣人は答えた。『不安なんだよ。またいつ大声で吠えるかと思うと不安で夜も寝れないんだよ!』」 「それが何か」 「いいか宍戸。この隣人の気持ちが僕の気持ちだ。お前はこれまで僕をイジメて恐怖を刷り込んできた。そのトラウマが熟したところで急に何もしなくなった。いや、何もしないんじゃなくて、普段通りに振舞った。イジメが日常だった頃と同じく普段通りにね。トラウマを刷り込まれた僕にとってはその一つ一つが〝イジメが始まる前兆〟なんだよ。その恐怖……それは実際にいじめられるよりキツイかもしれない。究極のイジメだ。それをお前は、先生の言いつけを守る形でやってのけた。お前はイジメの天才だよ」 「君は国語が苦手だと思ってたけど、大した想像力だね、作家にでもなればいい。だけど話を聞けば、君の憎悪の対象は僕だけのようだ。他の生徒たちは関係ないんじゃないのかな」 「わかった。だけど教室の出入口の錠は僕が壊したから開かないよ──君たちは僕を無視することが普通になっているから、僕が何をしても気がつかなかったようだね──ともかく、出入口は開かないから、逃げたい奴は窓から逃げろ」  すると一人が抗議した。 「窓からって、ここ三階だぞ!」 「排水管をつたって降りればいい。運悪く落ちても焼け死ぬよりはましだろ」  どよめくクラスメイトたちに宍戸が言った。 「落ち着けよ、そこに救助袋があるだろう。それを下まで伸ばしてみんな滑り降りたらいい」  その言葉にクラスメイトたちは一斉に救助袋のところに殺到した。セッティングしようとするがなかなかうまくいかない。 「グズグズするなッ! あんまり遅くなるようならこれを落とす!」  日向はジッポーをカチャカチャ言わせながら叫んだ。教室の外では風見教頭が学校中の消化器を集めてくるようにと指示を出した。そして徐々に多くの消化器が集まり始めた。泉も手のすいた捜査員をこちらに回すようにと要請した。二年B組の教室の真下の中庭では数名の教師が待機し、メガフォンで救助袋の設置方法を指示した。そのおかげで設置はスムーズになり、宍戸と日向を除く生徒たちは無事脱出した。  日向は宍戸を見下ろして言った。 「宍戸、お前はどうしてそこに残っている。なぜ逃げない? 名誉のためか?」 「名誉。……それがどれほど大切か君は気づいていない。親に死なれてはじめてわかるのさ、人間、誰かに受け入れられるのは好条件あってこそなんだってね。良い評判は生きていく上で欠かせないものなんだよ。だから僕は生きていくために必死で良い評判を作ってきた」 「そのために数多くの弱い者を踏み台にして、だな。孝信っていうお前のいとこも、この僕も」 「弱いだって? 笑わせるなよ。守られてるじゃないか、自分の子供ってだけで無条件に発動する親の愛情に。そんな連中、多少踏みにじったところで愛する両親が抱きしめてくれるじゃないか」  教室の外でその様子を見ていた教師たちはハラハラしていた。 「まずいな、宍戸の奴、日向を挑発してるぞ」 「いっそのこと飛び込んで奴を止めますか?」 「いや、今刺激したら何をしでかすかわからん」  教師たちが手をこまねいている背後で、駆け付けた警官たちが作戦を練り、要所要所に配備されていった。 「……そろそろ潮時だ。宍戸、あの世に行くよ」 「そんなもの、あればな」  日向は口角を上げてジッポーを点火させ、空中に放り投げた。
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