Chapter1: Bottom layer

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Chapter1: Bottom layer

──カシャカシャ── 「……それでは、正弦定理の成り立ちについて説明します」  長興寺学園高校の数学教師、但馬実がまるで自動音声のように機械的な一本調子の講釈を垂れた。 ──カシャカシャ──  その間、授業内容とは無関係の、乾いた機械音が二年B組の教室内に鳴り響いた。但馬は一瞬気を削がれたように話を止めたが、すぐに気を取直して続けた。 「このように一つの円を描いた時、その内接する直角三角形の……」 ──カシャカシャ──  但馬はもはや雑音など何も聞こえないかのように、話を続けた。教室の誰もが但馬と同じようにカシャカシャ音を無視し続けていたが、皮肉にも最も授業に集中していなかった近藤昌弘が痺れを切らしてしまった。 「おい、転校生! ええ加減やめんかい! 授業に集中でけへんやんけ!」  すると転校生と呼ばれた生徒は手を止めた。同時にカシャカシャという機械音も止まった。 「僕は転校して二ヶ月になるのに、未だに転校生と呼ぶのはひどいね。僕の名前は九部粟生(くぶあお)。別に呼び方は苗字でも下の名前でもニックネームでも構わないけど、転校生はやめて欲しい。あと、授業中にルービックキューブをすることは転校した時に学校側の許可を得ているんだよ。だからこれについては君にとやかく言われる筋合いはないね」 「何やと! お前のその関東弁ムカつくねん! これ以上なめた口聞いとったらしばき倒すぞ」 「僕は浜松出身だから関東弁っていうのはおかしいな。それと、君は授業に集中出来ないって言うけど、集中出来なかったのは授業じゃなくてスマホのゲームだったんじゃないの?」  九部粟生が話しているのを聞いてクラス中にクスクスという笑いが起こった。近藤は恥と怒りで顔が真っ赤になった。 「くそ、恥かかしおって……覚えとけよ」       †  二年B組の次の科目は世界史だった。受け持ちは二年B組担任の船越二男であった。船越が教室に入って来ると、教室内にどよめきが起こった。一人の若く美しい女性が続いて入って来たからだ。……ほどよく栗色に染めた長いストレートヘア。ナチュラルメイクの端整な顔立ち。知性を感じさせる紺色のジャケットに包まれた白いブラウスからは、大人の女性の色香がほのかに漂っていた。その魅力に抗うには青春真っ盛りの男子生徒たちはあまりに無防備過ぎた。 「えー、こちらの方はこれから一ヶ月間、教育実習で来て頂くことになった藍衣恵里菜(あおいえりな)先生だ。みんなあんまり生意気言って藍衣先生を困らせることのないように。じゃ藍衣先生、自己紹介して下さい」  恵里菜は、船越の紹介を受けると教壇の前に出て自己紹介を始めた。 「はじめまして、藍衣恵里菜です。普段は大学で法律を勉強していて、この度こちらの学校で教育実習させていただくことになりました。不慣れでご迷惑おかけすることも多いかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」  恵里菜がペコリと会釈すると、教室中から盛大な拍手が送られた。         †  藍衣恵里菜のお出ましに教室中(主に男子)が沸き立つ中、九部粟生は我関せずとばかりに一人ルービックキューブをカシャカシャと回し続けていた。その肩をいきなり近藤昌弘が掴んだ。 「おい、お前ちょっと顔貸せや」  九部は黙って近藤について行った。その行き先は体育館屋上のテニスコートだった。そこには何人もの素行の悪そうな男子生徒が待機しており、九部がそこに着くと、瞬く間にぐるりと取り囲まれた。 「近藤君、これは一体何の真似だい?」 「やかましいわ。お前、礼儀っちゅうもんを知らんようやから体で教えたるんや」 「人の都合も聞かずに、こんなところへ呼び出す非礼な人間に、礼儀について何も教わるようなことはないと思うけど」 「そんな口、二度と聞けんようにしたるで」  近藤は口角を上げて取り巻き連中に命じた。「やってまえ。ボコボコにしたれ」  そして連中が九部に殴りかかろうとしたその時…… 「あんたら、何してんのや! ここは部活の時以外立ち入り禁止のはずやで!」  全員が振り向くと、そこには藍衣恵里菜が仁王立ちしていた。 「これはこれは、藍衣先生。たまたま屋上の鍵が開いとったんでみんなで日向ぼっこしとったんですわ」 「何言うてんねん。あんたらが、その子んこと吊るし上げとったん、ちゃんと見とったで。ええ男が大勢で一人の子ボコボコにして何が楽しいんや」  すると取り巻きの一人、山口が言った。 「実習生の先生、大人しく下がってた方が身のためでっせ。この人は長学(ちょうがく)のコンマサ言うてこの界隈では恐れられている札付きの悪や。ナンボ先生言うたかってあんまりナメた口聞いとったらキレイな顔に傷つきまっせ」 「コンマサかマザコンか知らんけど、おもろいやないの。何やったらケンカの相手くらいはしたるで」 「何やと!」  山口はいきり立って恵里菜に飛びかかった。近藤は「やめとけ」と止めたが、勢いは止まらずあわやその拳が恵里菜の頬を捉えるかという時……  ドサッ!  気がつけば山口が地に伏して恵里菜はその横で立ち尽くしていた。 「な、何や。何が起こったんや」 「もうちょい骨のあるヤンキーかと思ったけど……カッコだけやな」 「く、くそっ!」  残りの者も次々に恵里菜に飛びかかったが、結局山口と同じようにバタバタと倒されていき、屋上は死屍累々たる有様であった。呆然と立ち尽くす近藤に恵里菜が言った。 「最後は近藤、あんただけや。どうや、あんたもかかってくるか?」  近藤はしばらく恵里菜を睨みつけていたが、そのまま何も言わず立ち去った。恵里菜はそれを見送ると九部の側に寄った。 「君、大丈夫? ケガはあれへん?」  しかし九部は恵里菜の手を払いのけた。 「余計なことしないで下さい。自分が背負ったトラブルくらい自分で解決します」 「そんな強がらんと。困った時には人に頼るもんやで」 「僕は困っていないし、世界史の授業以外はあなたに頼るつもりはありません」  そう言って立ち去ろうとする九部を恵里菜は呼び止めた。 「待ちいや……九部粟生!」  九部は振り返った。 「なぜ僕のフルネームを?」 「知ってんのは名前だけちゃうで。九部粟生、IQ180という高い知能指数の持ち主。しかし頭が良すぎて普通の授業と相性が合わず、LD(学習障害)で勉強の方はからっきし。さらに頭の回転が過剰になると精神障害を起こすため、ルービックキューブを解くことで正常化を保ってる」 「……どうして僕のことをそこまで調べているんです?」 「私は……君のその知能を借りたいんや。私のミッションに協力して欲しい」 「協力?」  訝る九部と恵里菜の視線が真っ直ぐぶつかり合った。不良少年たちはいつの間にかいなくなっていたが、最早二人にとってそれはどうでもよくなっていた。
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