Chapter2: Middle layer

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 ピン・ポーン……  玄関のチャイムの音が恵里菜の耳には不吉に響いた。 「すみませーん、宅配便でーす」  はあーっ。恵里菜はため息をつく。インターホン越しに聞き覚えのある黄色い声がする。そしてドアを開けると、案の定グレーの作業帽に作業服に身を包んだ三十代の女が立っていた。 「印鑑お願いしまーす!」 「あの、今日はあなたと遊びたい気分やないんです。とっとと用事を済ませてお引き取り下さい」 「ふうん、……珍しく気が合うじゃないの。私もあんたと遊ぶ気分じゃないのよ」  では、どうしてそのような服装で来たのかと恵里菜はツッコミを入れたかったが、余計なもめ事は避けたかったので黙っていた。どうやら近藤美紅は自分に文句を言いに来たのだと察知したのである。 「とりあえず、中へ」  美紅は前回と違ってきちんと靴を脱ぎ、勧められたスリッパを履いて入室した。恵里菜はありあわせのマグカップにインスタントコーヒーを注いで美紅に差し出した。 「……で、今日はどのようなご用件で」  と、言った途端に美紅はテーブルを拳で「ドン!」と叩いた。 「あんた、ウチの子ば使うて何しよんや!」  恵里菜は気圧されて、一口コーヒーをすすって呼吸を整えてから答えた。 「……実はクラスの子が濡れ衣を着せられて謹慎中なんです。それを助けるために色々調べていて、そのお手伝いをお願いしたんです」 「だけどさ、大勢の不良少年で囲んで自白を強要するなんて、やり方が汚いんじゃないの?」 「え? 何のことですか?」 「何とぼけてんの。先生が昌弘をけしかけたんでしょう。牧野健史って子をつるし上げるようにと……」  恵里菜は思わず顔を片手で覆った。 「あちゃ、あのアホ……ってすみません。牧野健史の名前を出したのは私のミスでした。でもまだ具体的に何もお願いしていなかったんです」 「だけど担任であるあなたの責任は大きいわよ」 「まあ、そうですね……」  恵里菜がしおらしくなって美紅は物足りなくなったのか、色々事情について尋ね始めた。そして、事件について凡そのあらましを掴んだ。 「……ということは、牧野健史とA子だけが柿内のバッグに未精算商品ば忍び込ませることができたっていうこと?」 「はい、消去法でそうなりました」  その時、美紅は机の上に置かれていた〝A子〟の写真に目が留まった。 「……あれ? ちょっと待って。この顔に見覚えがあるわ」 「えっ、ホンマに? どこで見たんですか、思い出して下さい!」 「そんなに急き立てないで……あ、思い出した。ポスターよ!」 「ポスター?」 「住民票を移すときに、福岡の中央区役所で見たの。大阪に越して来たのが六年前だから、六年前に中央区役所に貼ってあったポスターということになるわ」 「何のポスターやったんです?」 「確か……『二十歳になったら選挙へ行こう』だった気がする」 「その啓蒙ポスターのモデルが……このA子やったんか」  美紅は何度も頷いた。  美紅が帰って行った後、恵里菜はネットで福岡行きの夜行バスを探し、予約した。そして梅田のバス乗り場へ向かった。 (何や、最近ちょくちょく梅田に来るようになったな)  一般の若い女性ならキタやミナミでのショッピングにアドレナリンを噴出させるものだが、恵里菜はあまり人混みが好きではない。来なくて済むものなら、できるだけ来たくはない場所だった。  バスの座席は三列で、リクライニングシートはかなり倒れる構造だったので恵里菜はゆったりと過ごすことが出来た。おまけに乗客はまばらだったので、席を倒しても後ろの乗客に気を遣うこともなく、快適だった。おかげでぐっすり眠れはしたが、博多駅前に到着したのがかなり早い時間で、ほぼ叩き起こされるようにバスを降りた。 (うわあ、まだ五時半やん。区役所開くの八時四十五分やで。それまで何せえ言うねん)  福岡に来たら博多ラーメンやもつ鍋を食べたいとは思っていたが、さすがにこんな早朝に食べれば胸やけしてしまうだろうし、そもそも店が開いていない。何もすることがなく、博多駅から区役所まで地下鉄を利用すれば十分ほどで行けるところを、徒歩で行くことにした。それでも時間がかなり余ったのでコンビニやSUNNYという二十四時間営業のスーパーで時間をつぶした。  そしていよいよ営業時間と言う時、携帯が鳴った。久々に泰恵からと思いきや──泰恵とは、阪急十三駅で目撃して以来連絡がつかなくなっていた──、長興寺学園からだった。 (あかん、今日休むって連絡するの忘れとった!) 「……ああ、もしもし、藍衣先生? 今どこにおるんや?」  船越だった。声色には明らかに説教調だ。 「あ、ゴホン、ゴホン。急に風邪ひいてしまいまして、ちょっと寝込んでて電話できなかったんです」 「ホンマか? また学校休んで調査とかする気ちゃうやろな」  図星だ……ギクッとしたが、恵里菜は努めて苦しそうな声で応対した。 「ゲホゲホ、滅相もないです。生徒のみなさんによろしくお伝え下さい」 「そうか、まあ、お大事にな。ちゃんと寝とけよ」 「はい、それでは……」  電話を終えて恵里菜は深呼吸した。船越に嘘をつくのは胸が痛んだが、何とか気持ちを奮い立たせて中央区役所の中に入って行った。入ってすぐのところに受付があったが、そこには誰も係員がいなかった。だが左側のスペースに某団体の人道支援をアピールする展示があり、そこに数名の職員が立っていた。そこで恵里菜はその内の一人に聞いてみた。 「すみません、六年前にここに、この人が写っているポスターが貼ってあったのを覚えておられませんか?」  職員は、何故そのようなことを訊くのかという疑問を顔に出しながら返答した。 「六年前ですか? ……私はその時ここにおりませんでしたので、ちょっとわかりません」 「それじゃ、覚えていそうな人、いませんか?」 「そうですね……」  すると、もう一人の職員が「具志堅さんならわかるんじゃないか」と口添えし、その「具志堅さん」を呼んで来た。そして間もなく髪の薄くなった五十代の小柄な男性が連れて来られた。 「庶務課の具志堅です。六年前のポスターのことでお尋ねとか」 「ええ、こちらの写真の女の人がモデルだったと思うんですけど……」  具志堅はA子の写真をじっくり眺めた。そしてしばらくして思い出したようで、顔色を明るくした。 「はい、ありましたね。選挙に行こうっていうポスターでした」 「ひょっとして今も残っていたりします?」 「いえ、さすがにもうありませんよ。あのポスターは県庁のほうで発注したものですが、その制作会社に問い合わせたらまだ原版が残っている可能性はありますね」 「本当ですか? どこの制作会社でしょうか」 「ちょっと待って下さいね。県庁に問い合わせてみます」  具志堅は県庁に電話をかけ、ポスターについて尋ねた。すると間もなくその制作会社が判明した。 「ええと、天神の方にある株式会社レクラムっていう、広告企画や制作をしている会社だそうです。一応住所と連絡先も書いておきますね」  具志堅の書いたメモを受け取ると、恵里菜は区役所を出て地下鉄に乗った。区役所の最寄り駅・赤坂から天神までは一駅で、二分ほどで到着する。歩いて行けない距離ではなかったが、先ほどヒールで長い時間歩き続けたため、足が痛くなり始めていたのだ。天神に着くと、念願の博多ラーメンで早めの昼食を済ませ、しばらくカフェで休んでから株式会社レクラムへ向かった。
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