Chapter2: Middle layer

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 株式会社レクラムは天神にある雑居ビルの三階スペースを全て占めており、入口のアルミ戸にはワイヤー入り曇りガラスの窓がついていた。中に入ると、各々の机の上には資料が山積みにしてあり、全体的に雑多な印象だった。  入口に近い場所に座っていた中年男性は恵里菜の姿を見ると、立ち上がって声をかけてきた。 「何かウチん者とアポイントあると?」 「いえ、アポはないんですけど、このモデルさんが写っているポスターのことでお聞きしたくて」  すると、その男性は恵里菜から〝A子〟の写真をひったくってじっと眺めた。 「ああ……こん子、森崎綾子やなあ」 「森崎綾子……」  綾子……図らずも写真の人物が〝A子〟であったことに恵里菜は不思議な気持ちになった。 「もうモデル引退しとぉみたいばってん、うちでも現役ん頃はよぉ使うとったと」 「その、森崎綾子さんが写っているポスターなど、残っていますか?」  すると、その男性は無造作にパソコンの前に座り、検索をかけた。その結果、森崎綾子がモデルとして起用されたポスターのファイルが三つ見つかった。男性はそれをプリントアウトして恵里菜に渡した。その中には件の選挙啓蒙のポスターもあった。ポスターに映っている森崎綾子は、メディオラヌムでカメラに映った画像と比べるとかなり若く見えたが、同一人物であることは間違いなかった。 「森崎綾子さんは引退したとおっしゃいましたけど、その後の行方などはご存知ありませんか?」 「もともと彼女のプライベートに関しては何一つ知らんやったけんね。もしかしたら当時彼女が所属しとったモデル事務所なら、何か知っとぉかもしれん」 「そのモデル事務所、教えていただけませんか?」 「アクト企画っていうモデル事務所やけんが、……お姉ちゃん、行くんなら気をつけた方がよかよ」 「どうして?」 「あん人ら……これモンやけんな」  男性はそう言って指で頬を切る動作をした。  恵里菜はレクラムの社員に頼んでアクト企画にアポイントメントを取ってもらい、アクト企画を訪問した。実際に来てみると「これモン」という割には堅気風の印象であった。中には売り出し中と思われるタレントのポスターや商材などがあちこちに見られた。恵里菜が到着した時、社長は小さな用事で外出中とのことで、しばらく待たされた。そしてやって来た社長を見て、やはり「これモン」の人だと思った。パリッとした高級スーツに派手なワイシャツ、やたらと目にチカチカするアクセサリー類。動くたびにシャネル五番の匂いが漂ってきて恵里菜はむせ返りそうになった。 「お待たせしました。社長の金田清彦です」 「藍衣恵里菜です。今日は、こちらに以前所属されていた森崎綾子さんについてお尋ねしたくて、やってまいりました」 「……あなたはマスコミ関係の方ですか?」 「いえ、大学生で今は教育実習をしています」 「そうでしたか。いや、言葉に関西の訛りがありましたので、どうしてそんな遠くからわざわざ来たのかと思ったのです」 「はい、話すと長いんですけど……」  と言いながら恵里菜は事件の発端から、防犯カメラに映った女性が森崎綾子と突き止めるまでのあらましを長々と話した。 「なるほど、……ですね。ただ森崎綾子がウチに所属していたのはもう五年前のことでして、あまりお役に立てないかもしれません」 「彼女がモデルをやめた理由と言うのは何だったんですか?」  すると金田はよほど思い出すのが嫌なのか、苦虫を噛み潰したような顔でため息交じりに語った。 「森崎は、とにかく金、金、金の人でしてね。どんな仕事を与えても一度や二度は『ギャラが安い、もっと寄越せ』と文句を言うんですよ。実際には、もっと売れっ子でもそんなに貰っていなかったのですが、ギリギリまで上げてるのにギャラを上げろの一点張りでした。どうも買い物中毒であちこちの消費者金融に多額の借金を作っていたようなのです。それで私たちもあんまり取り合わなくなったのですが、それで怒り出して、辞めて行ったんです」 「他の事務所でモデル業を続けてはいなかったんですか?」 「いやいや、あんな身の程知らずを欲しがる事務所はないでしょう。よほど謙虚に生まれ変わりでもしなければね」 「じゃ、今は何をしているんでしょうね。お金が欲しいとなると、やはり夜のお仕事とか?」 「噂で聞いたんですがね、しばらく飲食店などでアルバイトをしながら首の皮一枚の生活を続けた後、関西の方で活躍する実業家とやらに見初められて、しっかり愛人の椅子に収まっているって話ですよ」 「愛人に。その実業家の名前はわかりますか?」 「いえ、そもそも噂で聞いた話ですから、本当に愛人やってるのかもわかりません。ところで……藍井さんは大学を卒業されたらどこか就職はお決まりですか?」 「いえ、まだ何も。それがどうなさいました?」 「あの、モデルなどは興味ありませんか? あなたほどの人ならきっとトップモデルになれますよ。将来的には女優や歌手だって夢じゃないと思います」 「あ、いえ、そういうの、興味ありませんから。それじゃ、失礼しまーす!」  そう言って恵里菜は逃げるようにアクト企画を後にした。  帰りのバスの発車時刻まで大分時間があったので、恵里菜は太宰府天満宮に寄ってみた。そこで祭られているのは菅原道真。幼少の頃は類まれな知性と才能を発揮した、今でいう天才少年だった。それにあやかろうと、毎年受験シーズンになると多くの若者がここ太宰府にやってくる。  恵里菜は道真が十一歳の頃に詠んだ「月夜見梅花(げつやにばいかをみる)」という漢詩に目を止めた。  月耀如晴雪(げつようせいせつのごとく) 梅花似照星(ばいかしょうせいににたり)  可憐金鏡転(あわれむべしきんきょうてんじて) 庭上玉房馨(ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)    恵里菜はこの詩を読んで、幼き道真の知性というよりは素直で混じり気のない感性を感じた。神童、天才とは大人が決めること。彼らも幼き頃は他の子らのように純真無垢なのに、いつしか大人たちが黒く澱んだ穢れに引き込んでしまうのだ。  恵里菜は九部粟生のことを思った。彼は自分の類まれな知性を学習という場で生かせていない。だから自分は彼にそれを生かせる場を提供したいと思ったが……  それは結局大人のエゴではないか。自分も他の多くの大人たちと同じように、あの純真無垢な少年を穢れに引き込んでいるのではないか……。そう思った時、恵里菜は大阪に戻ることにためらいを感じた。私さえいなければ、九部粟生も、近藤昌弘も純真無垢でいられる……。  その時、「私を助けて!」という声が耳の中で響いた。恵里菜は周りを見渡したが、そのように叫んでいる者は誰もいない。そうか、これは柿内有紗の声だ。そうだ、私には柿内有紗の、そして……小島忠の汚名を晴らすという大切な役目がある。そう思った恵里菜は迷いを振り去って、真っ直ぐに大阪行きのバス乗り場へと向かった。
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