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恵里菜がまだ小学生だった頃、藍衣家はとびきり裕福というわけではなかったが、持ち家もあり、何一つ不自由のない暮らしぶりであった。
そのような家庭ではよく見られるように、恵里菜はいくつもの習い事をさせられていた。中でも苦手だったのがピアノで、ちょうどその日はレッスンの前日だった。
(どないしよ。今週全然練習でけへんかったわ。また先生に怒られるわ……)
これから帰ってみっちり練習しなければならないと思うと眩暈がしそうになった。
「ただいま……」
恵里菜は帰宅すると手を洗って、ピアノのある部屋に向かった。ところが、部屋に入ると見知らぬ男たちがピアノをベタベタ触って何かを調べていた。部屋中にこもった加齢臭で恵里菜は息苦しくなり、彼らが出て行くのを待った。男たちが帰る時、母親はペコペコしながら彼らを見送った。
「ねえ、あの人たち何なん? ピアノ触ってたけど、何してたんや?」
「……恵里菜。もうピアノ、弾かんでいいのよ」
「えっ、どうして?」
「このピアノは持って行かれてしまうのよ。ピアノだけやない。この家にある色々なものが取り上げられるんや。そして……しまいには私たちみんなこの家から出て行かなあかんくなったんや」
「何でそうなるのん? ウチら、何か悪いことしたん?」
「あきらさんは何も悪いことはしてない」
あきらとは恵里菜の父親の名前である。恵里菜の母親は日系アメリカ人家族の末っ子であり、実家では親子兄弟みなファーストネームで呼ぶ習慣だったため、結婚してからも夫のことを名前で呼んでいたのだ。「そやけど、あきらさんのお友達がな、借金が返せなくなって夜逃げしてもうたんや。あきらさんはな、そのお友達の連帯保証人やったから、代わりに返さんとあかんねん」
当時の恵里菜には夜逃げも連帯保証人も理解出来なかったが、他人のせいで自分たちが理不尽な災難が降りかかったということだけはわかった。
「悪いんはその人やん。その人捕まえてちゃんとせえって言うたらええやんか!」
恵里菜は腹立ち紛れにそう言ったが、子供心にもそれが叶わぬ事情であることははっきりとわかった。母親は黙って娘の怒りを受け止めていた。
不思議なことにあれだけ嫌だったピアノも、こんな形で奪われるとなると手放したくなくなった。それから毎日、憂さを晴らすように恵里菜はガンガンピアノを弾き続けた。
「私、ピアノ続けたい! これからはちゃんと練習するから。私からピアノを奪わんといて!」
「ごめんね、恵里菜。もうどうしようもないんや……」
そんな会話の流れていたある日、突然家を訪ねる者がいた。ドアを開けて見ると、そこには柔和な表情を浮かべた、紳士的な青年が立っていた。
「……どちら様ですか? セールスでしたら間に合っていますけど」
「初めまして。三重と申します。任意売却の仲介をしている者です」
「任意売却?」
「失礼ですが、裁判所の方でこちらのお宅の配当要求終期の公告を拝見いたしました。すなわち、家は差押えられ、ゆくゆくは競売にかけられることになっています」
「ええ、そうですが」
「でも、競売となると、まるでバナナの叩き売りのように安く買い叩かれることがほとんどです。だいたい落札価格は相場の五十%から七十%の間となるのが通常です」
「そんな……それじゃ家を売ってもまだ多額の借金が残ってしまうではありませんか!」
「ええ、そこで私どもがお勧めしているのが任意売却です。つまり競売にかけず、お家を公正な価格で売却するというものです。私どもの実績から申し上げますと、相場の百%から百四十%の間で取引されています」
「そんなに違うんですか!」
「はい。そうすると借金も全額返済できる上、手元にもお金が残ります。そのお金を新しい生活に役立てることができるのです」
「そんなうまい話が……」
「もちろん、私どももボランティアではありませんから、それ相応の報酬はいただきます。しかし、豊富な実績とネットワークにより、必ず適切な買い手を探し出します。そして債権者との交渉も一手にお引き受けしますので、結果的にはかなりお得になります」
「そうですね……主人と相談してみませんと……」
後日、三重はあらためて藍衣家を訪れた。そして恵里菜の父親、母親が揃って三重の説明に耳を傾けた。父親も気持ちに余裕があれば冷静に判断出来ただろうが、今はもう藁をも縋りたい気持ちで一杯だった。
「お話よくわかりました。三重さんにお任せしたいと思います。ところで手数料の方は如何ほど用意すればよろしいのでしょうか?」
「着手金としてまず三十万円いただきます。あとは売却金額に応じて手数料が算出されることになります」
「わかりました。では、三十万円は今日中にお振込みします」
「ありがとうございます。後は大船に乗った気持ちでお待ち下さい」
藍衣家の銀行口座には五十万円ほどあったので、その中から三十万円だけ三重の口座に振り込んだ。
藍衣家に久々に明るい笑顔が戻った。
「ねえ、またピアノ弾けるの? お家にも住めるの?」
「そうやで。どうなるかと思ったけど、三重さんのおかげで助かったわ」
それからしばらく経った頃、三重から連絡があった。
「実は、債務者の方が事情により任意売却に応じられないと言って参りました」
「……それはつまり、どのようになるのですか」
「当初通り、お宅が競売にかけられることになります。その場合、かなり安価な落札が見込まれ、藍衣様には多額の残債が残ることになります。……本当にお力になれずに申し訳ありませんでした」
「そんな、大船に乗る気持ちで任せて欲しいと言って下さったではありませんか! 何とかなりませんか?」
「そうですね……実はウチの顧問弁護士がそういった問題のエキスパートでして、依頼すれば百%解決できます。ただ費用の方が百万円ほどかかりますが……」
「百万円! そんなに高いんですか」
「はい。しかし任意売却に持っていくことが出来れば、それ以上の利益となり、結局お得です。いかがなさいますか?」
恵里菜の父親はしばらく考えた。そして意を決したように三重に返事した。
「わかりました。何とか百万円用意します。それで顧問の先生にお願いして下さい」
恵里菜の父親は親戚や知人を片っ端から訪ねて頭を下げ、金を工面してもらった。その結果何とか百万円集まり、三重の口座に振り込んだ。
ところがまたしばらくすると、突然スーツ姿の男性二名と作業服姿の大勢の作業員が藍衣家に押しかけてきた。
「な、何なんです? あなたたちは?」
「私は大阪地方裁判所執行官の坂田と申します。本日は差し押さえ物件の引き上げに参りました」
「差し押さえ物件て……ウチは任意売却の手続きをしているはずですが……主人に連絡してみます」
恵里菜の父親は仕事先から飛んで帰ってきた。そして坂田執行官に説明した。
「ウチは三重という業者に任意売却の代行を依頼してるんだ。売却も済んでいないのに差し押さえ物件の引き上げなどできないはずだ」
「……では、今ここで三重さんという業者に連絡していただけませんか」
坂田が冷徹にそう言うと、恵里菜の父親は三重の番号にコールした。ところが……
──おかけになった電話番号は現在使われておりません。もう一度番号をお確かめの上、もう一度おかけ下さい──
「そんなバカな!」
恵里菜の父親は何度も何度も掛けなおしたが、結果は同じ。それを見かねた坂田が尋ねた。
「その三重という業者とはどのような契約をなさいましたか?」
そこでこれまでの経緯を話すと、坂田はため息を一つこぼして言った。
「藍衣さん、大変お気の毒ですが、あなたは騙されたんですよ。正規の任意売却仲介業者であれば事前に手数料を徴収することはありませんから、前払いを請求する時点で既に詐欺です」
「そ、そんな……」
「ともかく、後のことは弁護士と相談して下さい。私もあまり時間はありませんので、業務を遂行させていただきます」
「ま、待ってくれ! 持って行かないでくれ!」
坂田は恵里菜の父親を抑えながら作業員たちに指示し、家の中の差し押さえ物件をごっそり持って行った。
次の日、恵里菜が学校から帰ると寝室の前で母親が呆然と立ち尽くしていた。
「……そんなところで突っ立って、どないしたん?」
すると母親は烈火の如く叫んだ。
「こっち来たらあかん!」
母親が止めるが既に時遅く、恵里菜の瞼には天井からぶら下がって事切れている父親の姿がしっかりと焼きついた。ショックのあまり、叫び声を上げることさえ忘れていた。
「……もうすぐ救急車来るから待っててな。ちょっと買い物行って来る」
母親はそう言って家を出た。それが幼き恵里菜の見た、母親の最後の姿だった。
突然孤児となった恵里菜は、箕面市にある児童養護施設・友愛児童園に引き取られた。そこに入所した日、身の回りの物を落ち着けると、恵里菜は電車に乗って大阪地方裁判所に押しかけた。そして入口を入ると、受付めがけてツカツカと歩いて行った。
「ご用件は?」
「執行官の坂田、出してんか!」
受付の係員が戸惑っていると、誰かが呼び出したらしく、坂田執行官がやって来た。
「私が坂田だけど、……お嬢ちゃん、何の用事かな?」
そこで恵里菜は坂田のシャツを掴んで叫んだ。
「ピアノを返せ! お家を返せ! 両親を返せ!」
坂田が眉間にしわを寄せ、警備員に目で合図すると、彼らは恵里菜を捕まえて外に摘み出した。
「この鬼! 畜生! 悪魔!」
幼き恵里菜は入口の前で必死に叫んだが、その声は都会の喧騒に虚しく掻き消された。
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