Chapter2: Middle layer

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「あの、……それ何なの?」  森崎綾子がそう質問したのは、もちろんそれが何か知らなかったからではない。なぜ人の話を聞く時にそのようなことをするのか、というモラルに関する問いだ。九部に代わって恵里菜が説明した。 「ごめんなさい、この子、異様に頭の回転が速くて、ルービックキューブをカシャカシャしていないと精神的にパニックを起こしてしまうんです」  ──カシャカシャカシャ──  その光景は知らない人が見れば、お気に入りのおもちゃが手放せない子供と、やめなさいと注意する母親のようだった。ただし、本当にそう見えるには九部は大きすぎたし、恵里菜は若すぎた。 「まあ、いいわ。私も礼儀に関しては人のこと言えた義理ではないし」 「すみません。でも、お仕事中に抜け出して来ていただいて申し訳なかったですね」 「暇だから工藤に頼んであそこでいさせてもらってるだけで、ある程度仕事してたらあとは好きにしていいって言われてるのよ」  森崎綾子が勤めていたのは工藤ファイナンシャルコンサルティングで、公認会計士の資格を持つ工藤啓介が経営している。むろん森崎は工藤の愛人である。恵里菜たちが事務所へ訪ねていくと、工藤の方から外で話して来てほしいと希望したので、弁天町駅前のカフェで話すことになったのである。 「ふうん、あの金田がしゃべったのね、私が大阪の実業家の愛人やってるって。厳密に言うと工藤は実業家とは言わないけどね。まあそれはいいとして、それだけでよくここなで辿り着いたわね。それで私から何を聞きたいの?」 「森崎さんが梅田のセレクトショップ・メディオラヌムを訪れた時、万引き騒ぎがあったのをご存じですか?」 「ああ、知ってるわ。あの〝ナミスポ〟にスッパ抜かれた奴よね」 「ナミスポ?」 「知らない? 浪速スポーツっていうスポーツ新聞よ。あの記事で柿内選手の万引きが世間に知れ渡るようになったのよ」 「ええ? そぉやったん?」  恵里菜も柿内もスポーツ新聞は読まない。それで、そんな記事が出ていることは全く知らなかったのだ。 「私もナミスポを見るまでは、あの子が有名な卓球選手だなんて知らなかったけど……私はあの子、やってないと思う」  その発言に恵里菜は身を乗り出した。九部もルービックキューブを止めて話に集中した。 「どういうことです?」 「あの子が盗んだとされているフォクシーのブラウス、セール品でね。……私、前々から狙ってたの。だけどあの日、店にいったらもうなくなっててガッカリしたのよね。で、あの子が店に入ったのはその後だった。だからあの子があのブラウスを万引きするなんてありえないでしょ」  それは青天の霹靂だった。柿内の冤罪を晴らすのに決定的な証言となる。しかし同時に疑問も残る。すでに店内になかった商品がどうして柿内のバッグに入れこまれたのか? 「可能性は二つありますね」  森崎綾子と別れた後、駅に向かう道すがら九部が推理を述べた。「一つ目はあらかじめ盗んであったフォクシーのブラウスを、既に入店する前に柿内のバッグに仕込んでおく。そして入店するように仕向け、そこで捕まるようにする。二つ目の可能性は、店員が柿内を捕まえた時点ではまだバッグにブラウスが入っていなかった。その後、バッグの中身を確認するふりをして隠し持っていたブラウスをバッグに入れた。あるいはあたかもそこから出てきたように演技した」 「するとそれぞれの場合の犯人は……」 「前者の場合、入店前から柿内に付き添っていた人物、すなわち……」 「牧野健史!」 「そうです。そして後者の犯人は言わずもがな、柿内を捕まえた稲田亜美という店員です。もちろんこれは森崎綾子が嘘をついていないと言うことが前提ですが、森崎綾子が柿内の潔白を証言することには何の利得もない。つまり嘘をつく理由がないので、彼女の証言は信じて良いと思います」 「牧野健史か稲田亜美……確かめる方法は何かないやろうか」 「さっき、森崎綾子が浪速スポーツがスッパ抜いたって言ってましたよね。新聞社に行ってその記事を確かめませんか?」 「なるほど!」  浪速スポーツ新聞社は堺市にあった。それで二人は弁天町から大阪環状線に乗ると新今宮で南海電車に乗り換え、堺へと向かった。       ✝  その頃、自分の取り巻きたちが関西一円を巡り歩いている中、近藤は母親と一緒にある場所に向かっていた。近藤は学生服の詰襟をきっちり嵌めると言う、ヤンキー学生らしからぬいでたちであった。美紅もまるで極道の妻を彷彿させるような着物姿だ。彼らが歩くと、通りすがりの人々はチラッと振り向かずにはいられなかった。  そして彼らがある一軒家の前に来た時──その表札には牧野と書かれていた──、美紅は息子にきつく言った。 「とにかく謝りなさい。嫌なこと言われても言い返したらだめよ!」 「ああ……」  そしてチャイムを鳴らした。すると、中から牧野健史の姉、沙江子が出てきた。学生服姿のヤンキーと着物姿の女性の組み合わせに沙江子は一瞬たじろいだが、気を取り直して訊いた。 「どちら様でしょうか?」 「あの、健史さんは今おられますでしょうか?」 「健史ですか? ちょっと呼んできますね」  しばらくすると牧野健史が出てきたが、近藤とその母親の姿を見てギョッとした。 「あっ、あなた方はあの時の……」  健史がそう言うや否や、近藤親子は玄関先でガバッと地にひれ伏した。 「大変申し訳ありませんでした!」  健史は何事かと驚いて対応に困っていると、奥から姉の沙江子が「あがってもらいなさい」と助言した。そこで、健史は近藤親子を中に入れ、なぜか応接間ではなく和室に案内した。何となくまた土下座されそうだったので、それなら和室の方が良かろうと、彼なりに気を使ったわけである。  そして、近藤親子が再び身を低くしようとした瞬間、 「こちらこそ、申し訳ありませんでしたっ!」 と言って健史が頭を下げた。  今度は近藤親子のほうが戸惑って互いに見つめ合っている。 「……姉ちゃんも来てくれるかな。俺、みんなに話さなくちゃいけないことがある」  健史がそう言うと、沙江子もやって来て近藤親子と一緒に健史の語ることに耳を傾けた。
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