Chapter2: Middle layer

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「いらっしゃいませ」  セレクトショップ・メディオラヌム店員、稲田亜美は入店してきた美しい女性に──それが恵里菜であることには気づかずに──目を止めた。ロングヘアをギブソンタックにしてまとめ、シンプルだが、上品でセンスの良いコーディネートで服を着こなしている。彼女は店の奥に進むと、いくつかのブラウスを手に取り、胸に当てながら鏡で確認していた。稲田はピンと来た。この客は上手く接客すれば販売につながると。そして近づいて行って声をかけた。 「お客様、ブラウスをお探しでしょうか?」 「はい、白い清潔感のあるブラウスを探しています」 「お好きなブランドはございますか?」 「フォクシーです。ここにセールで一万二千円で売っていたのがありましたよね。もう売れてしまったんですか?」 「申し訳ございません。あの商品はあいにく売れてしまいまして……」 「そうですか、残念です……でも本当はあなたが隠して柿内さんのバッグに入れたんじゃありませんか?」  その一言に稲田はさっと警戒の色を見せた。 「……恐れ入ります。お客様のおっしゃる意味がよくわからないのですが」  すると彼女は数枚の写真を稲田に見せた。それを見た稲田の顔色がさっと変わった。そこには稲田が柿内の手を引いた時、バッグの上部が開いているにも拘らず、ブラウスが入っていない写真、店の奥で稲田が柿内のバッグにブラウスを入れ、すぐに取り出している様子が順序だてて撮影された写真があったのだ。稲田は写真から目を上げると、相手をじいっと睨んで言った。 「あなたは……先日いらした先生ですね。お召し物の印象が大分違ったのでわかりませんでしたが」 「はい。私は先日お邪魔した、柿内の担任の藍衣恵里菜です。柿内を陥れたのは稲田亜美さん、あなたですね?」  稲田は黙秘権を行使するがごとく、沈黙を保った。恵里菜は構わずに続けた。「あなたは最初からフォクシーのブラウスを盗んで隠していた。ところが店長がその商品がなくなったと騒ぎだしたので、しかたなくあなたは店内にいた柿内に濡れ衣を着せることを思いついた。柿内を捕まえ、こっそりと上手にブラウスをバッグに入れ込み、あたかも彼女が万引きしたかのように見せかけた。違いますか?」 「思い過ごしではございませんか? こんな写真が何の証拠になるでしょうか」 「実はあの日、例のブラウスを買おうと思ってここに来ていた人がいたのですよ。彼女はそのブラウスがなくなっているのを見てガッカリしたそうです。その後に柿内が店に入って来たと証言しています。つまりあなたが柿内を捕まえた時点では、彼女のバッグにブラウスが入っていることはありえないんですよ」  稲田は観念したのか、しばらく間を置いて重い口を開いた。 「……ここでは何ですから、場所を変えて話しませんか」 「わかりました」  稲田は店内にいた他の店員に「お客様と大事なお話があるので少しの間席を外します」と言づけて、恵里菜に手招きして外に出た。  稲田は梅芝本尊前交番の方向へと恵里菜を連れて歩き出した。そしてJR高架下をくぐり、ビル群の裏手へとやって来た。恵里菜は稲田が交番へ行って自首するものと思い込み、人通りの少ない場所へ来たにも拘らず、警戒するのを怠ってしまった。  稲田の姿が見えなくなった。恵里菜はあたりを見回した。誰もいない。  次の瞬間、背中に鋭い痛みが走った。振り向くと稲田が至近距離で恵里菜の背中にアーミーナイフを刺していた。恵里菜は咄嗟に身を引き、稲田との距離を取った。ナイフは地面に零れ落ち、鮮血が恵里菜の足を伝ってツツーと流れ落ちて行った。 「やったわね。油断していたわ」  稲田は地面に落ちたアーミーナイフを拾い、再び恵里菜に襲い掛かった。恵里菜はそれを軽くかわしたが、動くたびに傷口がキリキリ痛む。出血もひどくなっている。自分の傷口が見えないので、どれくらいダメージを受けているのか測り知ることができなかった。それは恵里菜の機動力に影響を与え、動きを数倍鈍くした。稲田は執拗に攻めてくる。恵里菜はそれをかわすのが精いっぱいになっていた。その時…… 「先生! 大丈夫か!」  聞き覚えのある声……近藤昌弘だった。そしてその背後から大勢のヤンキーたちが駆け寄ってきた。そしてあっという間に周りをぐるりと取り囲んだ。 「お姉さん、そんなもん振り回してたら、そのたっかそうな服に傷つきまっせ」  近藤がそう言うと、稲田はアーミーナイフを地面に捨てた。 「先生、統率力はこういう時に使うもの。そうやな?」  稲田を捕らえた近藤が誇らしげに言うので、恵里菜は苦笑した。  九部もやってきて彼らの輪の中に入った。そして負傷した恵里菜を抱きかかえ、〝お姫様だっこ〟の状態で輪の外に出た。 「先生、今救急車を呼んでいますから、それまで待っていて下さい」 「……ありがと」  恵里菜の胸が不覚にもキュンとなってしまった。そして間もなく救急車とパトカーがやって来て、恵里菜は病院に、稲田は警察へ連れて行かれた。       ✝  稲田亜美は曽根崎警察署へと連行され、取り調べを受けた。ちなみに、恵里菜が見せた数枚の写真は、浪速スポーツ新聞社から譲り受けた画像データを元に、恵里菜が牧野健史に指図して作らせた合成写真である。写真部の彼にはそのような作業は朝飯前だったが、当然そのような写真には証拠能力はない。  しかし、取調室に入った稲田は柿内に濡れ衣を着せたことを認め、自白を始めた。 「私の勤めるメディオラヌムは株式会社ラドラーリテイリング直営のセレクトショップで、私が入社した頃はとても優良な店舗でした。でも店長が橘川藤子に変わってから職場の雰囲気は一変しました。ひどいパワハラとモラハラで、店員たちはいつもビクビクしていました。ノルマ未達成者へのペナルティーがすごく、あまりのストレスに鬱になる店員もいたのですが、そういう店員にも容赦なく罵詈雑言を浴びせかけ、恐怖政治を敷いていたのです。  私たちエグゼクティブクラスの店員となると、毎月売り上げ200万円のノルマが課せられていました。達成できないと橘川のネチネチした嫌がらせが待っていますので、お店の商品を自腹購入し、ノルマをクリアしたりしていました。私もやはり同じように自腹で商品を購入したりしていました。一般の方は、そこまでするくらいなら転職したらいいと思うでしょうけど、アパレル店員はもともと服が好きなので、自腹と言っても欲しい物を買うわけですからそれが嫌だと言う人は案外少ないのです。  でも、やはりずっとそんな状態では立ち行かなくなって私も消費者金融に手を出すことになりました。翌月ノルマを達成すれば返済できるので気楽に貸したり返したりを繰り返す内に借金の方がふくれてきてしまい返済が難しくなってきました。ある時、返済にあと一万円どうしても足りないという時がありました。ふと店のクローゼットを見ると、納品されてまだ展示されていない商品がストックされていました。一つぐらい失敬しても誰もわからない……そんな悪魔の声が耳元でささやかれました。気がついたら私はその商品を自分のバッグに入れて持って帰りました。その足でリユースショップに立ち寄り、盗んだ商品をそこで現金化しました。  その日からいつバレるかとドキドキしながら暮らしていました。でも不思議なことに誰も気がつかなかったんです。今回限り、と決めていたのに私はそれからも商品を窃盗・横流しというサイクルを繰り返し、お金を作っていました。  ところが商品が次々となくなっていることに橘川店長が気づき、私たちに万引きに気をつけるよう注意を促しました。そして店員全員の監視の目が厳しくなり、私もうかつに店の商品に手を付けることが難しくなりました。それでもやはり私はお金が必要になり、あの日、比較的監視が手薄な場所にあったフォクシーのブラウスを盗み出しました。ところが、橘川店長はそのブラウスがなくなったことにいち早く気づきました。店長は営業中でしたが、私たちを集めて言いました。 『フォクシーのブラウスがなくなりました。万引きかと思いましたが、私の見た限り、今日は不審な動きをするお客様はおられませんでした。私はあなた方の誰かが盗んだという可能性も疑わざるを得ません。そこで、みなさんの荷物をチェックします』  そう言って橘川店長は私たちの私物の一つ一つをチェックしていきました。私はブラウスを店内のテレビの裏に隠していましたので、見つかることはありませんでした。でも、このままでは見つかるのは時間の問題だと思いました。どうにかしなければ、そう思っていると柿内さんがお店にやってきました。彼女は上部の開いたタイプのトートバッグを持っていました。これなら簡単に万引きの偽装工作が出来る、そう思って後のない私は彼女をスケープゴートにするべく、行動を起こしました」  その自白に基づき、曽根崎警察署は稲田亜美を窃盗罪、横領罪、名誉毀損罪で送検することとなった。
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