Chapter1: Bottom layer

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 恵里菜と九部は二年B組の体育館屋上のテニスコートだった。またもや鍵は開いたままだ。ボールか、はたまたコートの床材のためか、かすかなゴムの匂いが鼻先をくすぐる。 「犯罪心理学の基本ですが」  九部が口火を切った。「犯罪を大きく分けると、秩序型と無秩序型の二つに分かれます。先生ならご存知ですよね?」 「ええ……秩序型犯罪者の特徴としては、高い知能や社会的地位、そしてコミュニケーション能力などが挙げられると聞いたけど」 「仮にFAX文書の送り主をXと呼ぶことにしますが……Xは犯行声明を出したり、期日を十五日と予定したりと、一見秩序型の行動にも思えます。でも、話を聞いていると人物像はむしろ無秩序型に近い……」 「どのあたりが?」 「まず文書における日本語の使い方に誤りが目立つことから、高い教養を身に着けている人物でないことは明白。そうでなくてもXは総じてやることなすことが秩序型にしては稚拙過ぎます。まるで無秩序型犯罪者が背伸びして秩序型みたいなことを頑張ってやっている、そんな風にも思えるんです。たとえば……」  九部は頭の中のリストを整理するように間を置いて言葉を繋いだ。「Xは送信当日、大八木がエイティーンマートに行くことがわかっていたので、大八木の後をつけて彼が買い物している最中にFAX送信した。それでFAX送信者という濡れ衣を大八木に着せようとしたわけです」 「え? 何でXは大八木がコンビニに行くことがわかったん?」 「それは、あの日教室にいた者なら誰でもわかりましたよ。今井が『エイティーンマートのクリームブリュレ買うて来て』と、大八木に大声で言ってましたからね」 「ふうん、なるほど」 「教師たちだけでなく警察までも大八木を疑ったことを考えればⅩの作戦は成功したと言えないことはありません。でも、Xの本来の目的は自分がいじめられていることに気づいてもらい、そして解決してもらうことでしょう。すると、濡れ衣工作はXの目的を果たすのに何ら役立っていないばかりか妨害すらしています」 「Xは何でわざわざそんなことをしたんやろ」 「濡れ衣作戦を思いついた時、このトリックの魅力に目が眩んで、どうしても犯行に使いたくなったんです。この時、自分の目的に沿っているかどうかということには、あまり考えが及ばなくなったんでしょうね」 「ダイエット中なのに、目の前に現れたスイーツには抗えない心理と似ているかしら?」 「まさしくその通りです。そのように目先にぶら下がったものに目が眩んで目的を失うのは、極めて幼児的であり、無秩序犯の特徴でもあります」  九部の言葉が恵里菜の胸にグサグサ突き刺さっていった。 「ほ、ほんなら十五日という猶予期間を設けとんのも、秩序型の真似事いうことかな?」 「そうですね。十五日がXにとって思い入れのある日だとも考えられないことはないですが、十五という数字に何らかのメッセージを暗号を含ませている可能性がありますね」 「暗号? どんな暗号や、それで何を伝えようと言うんやろ?」 「Xの立場で考えれば、恐らくイジメっ子の名前でしょうね。暗号は換字表などを使う方式は無意味なので、数字から特定の言葉を連想できるようなものでしょう」 「うーん、何があるかな。例えばというファーストネームとか……」 「ウチのクラスはおろか、学年全体でもそんな名前の生徒はいません……実は僕、少しプログラミングを齧っているので、十五というと、十六進法で最も高い一桁の数値であることを思い起こします」 「え? 十五は二桁の数字やで」 「それは一般に馴染みの深い十進法での話。十六進法では演算上、十五は一桁として計算されます。ところが、アラビア数字は十進法の数字ですから、十以降の文字がありません。そこでAから始まるアルファベットで表記するのです」 「ちょっと待って。Xはまあ、言うたらそんな賢い人間ちゃうんやろ。言うたら悪いけどそんな賢そうな方法、考えつくとは思えへんのやけど」 「考えつかないでしょうね。でも実はこのネタ、九十年代半ばに出版された、ある推理小説で使われたものなんです。これを読んでいたとすれば、さほど知能レベルが高くなくても、いや、高くないからこそ、またこれも使ってみたくなるのでしょう。そして、暗号の方ですが、十がAですから十五はB、C、D、Eと数えてFになります」 「すると、イニシャルがFの人物ということか。……そやけど、ウチのクラスにFで始まる名前の子、おれへんな……」 「一人いるじゃないですか、Fで始まる人物が」 「……ええ? まさか!」       †  二年B組担任の船越二男が、昼休み中にスマホを操作していると、ふと背後に人の気配を感じた。そこで透かさず振り向くと、恵里菜が真後に立っていた。彼女は慌てて顔を横に向けたが、その態度から察して船越のスマホを覗き込んでいたのは間違いない。 「な、何や! 人の携帯勝手に覗かんとってくれ!」 「あ、そ、その、教師はやはり休み時間でもネットで教育情報かなんか学んでるんかな、と思って」 「アホ言わんとってくれ。休み時間くらい教育のこと忘れんと、教師なんかやってられへんわ!」  船越はそう言って席を立ち、職員室から出て言った。 (二年B組でFから始まる唯一の人物……それは担任の船越先生しかおらん。そやけど、なんかピンと来んなあ)  船越は指導教員なので、恵里菜はその行動を大体把握しており、その範囲では特定の生徒をいじめているような様子は見られなかった。だがネット上で嫌がらせをしている可能性もある。そこで船越がどのようなサイトにアクセスしているのか何とか探り出そうとするのだが、なかなか成功しない。  船越が出て行ってからしばらく時間を置いた後、恵里菜も出て行って船越を尾行した。物陰でサイトにアクセスする可能性があるからだ。しかし、しばらく尾行していると、船越は男子トイレに入ってしまった。 (しまった、船越先生は誰も見ていない男子トイレの個室で目的のサイトにアクセスするに違いない。どないしよ、まさか私が男子トイレに入るわけにはいかんし……)  そこへ幸か不幸か近藤が通りかかろうとした。恵里菜の姿を見た近藤は嫌な予感がしたのか、一瞬身ぶるいがした。哀れかな、その予感は当たることとなった。 「な、ちょっとお願いがあんねん」 「また、何ですの?」  あからさまに嫌な顔をする近藤の耳元で恵里菜は囁くように言った。 「今な、船越先生がトイレに入ったんや。多分、スマホでネット見るんやろ。その様子をな、上からこれで撮影して欲しい」  恵里菜はそう言って自分のスマホと自撮り棒を差し出した。 「ちょっとぉ、かんにんして下さいよ。これって犯罪やないですか」 「ヤンキーが犯罪恐れてどないすんねん。な、頼むわ」  何やかんや恵里菜に言いくるめられた近藤は、スマホと自撮り棒を受け取ると、男子トイレに入って行った。  そのトイレは大便用個室が二つあり、一つは塞がっていて、船越が占有していると思われた。近藤は空いている方に入り、扉を施錠するとスマホのカメラアプリを立ち上げ、ビデオモードにした後、自撮り棒にセットした。そして恐る恐るスマホを高く上げ、レンズを隣の個室内に向けた。 (男の便所の覗きなんかシャレならんで……何で俺がこんなことをせなあかんねん)  近藤が心の中でそう呟いた時である。自撮り棒の先のスマホがグラつき始めた。 (やばい、取り付け方が甘かったか。このままでは落ちる!)  近藤は取り付け直すために一旦スマホを引き戻そうとした。しかし、その瞬間……。  カシャン!  恵里菜のスマホが船越の足元に落ちた。驚いた船越はそれを拾い上げた。それは船越にとって見覚えあるスマホだった。船越は自分のスマホで、その心当たりの番号にかけてみた。すると、恵里菜のマナーモードの携帯は元気よく震え出した。
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