人生の一大事

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人生の一大事

 わたしはとても悩んでいます。楽長先生の結婚の申し込みに「はい」と返事をして良いものか。  彼は36歳でケーテンという小さな宮廷の楽長でありながら、ドイツ全土はおろか外国の著名な音楽家から尊敬される存在なのです。  演奏家が共演を望んで立ち寄ったり、オルガン制作者が意見を聞きにわざわざ足を運んだりして、彼の赴任後にわかにケーテンは楽都になりつつあります。  何と言いましても、新しい作品は熱烈な崇拝者に待たれていました。忙殺されながらいつ作曲する時間を得るのか、たくさんの名作が次々と生まれてきます。先生は、音楽の女神から選ばれた輝かしいお方に違いありません。  真面目すぎるぐらい真面目で、音楽家にありがちな浮いた話もない誠実なお人柄にも惹かれます。そんな方から妻として求められることに、驚きと戸惑いでいっぱいです。嬉しくないわけはありません。しかし、十分に責任を果たせるか自信を持てないのです。  トランペット奏者の父、末娘のわたしをたっぷり甘やかしてくれた母にも、まだ何も知らせていません。わたしが承諾したら、楽長先生はさっそく正式な申し込みに来てくださるそうです。わたしが「はい」と言ったら、考えてもみなかった人生がはじまるのです。  19歳の、ヴァイセンフェルスという小さな小さな街で生まれ育ったわたしが、ヨハン・セバスティアン・バッハという偉大な音楽家の妻になるかもしれない。その決断がどれほど困難であるか、どうか、想像してみてください。  それで、しばし返事を待ってもらうことにしました。しかし、わたしの意図はうまく伝わりませんでした。彼は大きな体を縮めるようにして、小さな声で言いました。 「君はモテるからなあ。楽団員の半分は君のことを好きだからね。とくに、チェロの主席。あいつの君を見る目ときたら。それも若くて美男子なんだよなあ」  彼は、ため息をもらしつつ言いました。 「他に好きな男性がいる、あるいは僕のような人間は好みではないでも、どんな結論でも受け入れるつもりだ」  まったくそんなことは、あり得ないことです。わたしは驚いて彼を見つめました。彼はさらに何を思い込んだのか、こう続けました。 「大丈夫だ、断られたとしても、父上や君を宮廷での演奏から外しはしないから。何も心配せずじっくり考えてくれたらいいよ」  わたしは、彼の褐色のつぶらな瞳に見つめられ、真っ赤になってうつむくばかりでした。
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