9人が本棚に入れています
本棚に追加
○
初めて千秋を見たとき、なんだこいつ、小学生か? と思った。
4月、ニューヨークから戻ってきた俺は、黒田家ではなくおじさんの家に住むことにした。そして、その家から一番近い明日葉高校に進学することを選んだ。兄貴がそこの生徒会長をしてることは知ってたが、そんなこと憂慮する余裕はなかった。それくらい、俺は疲れていたのだ。
戻ってきてしばらくは、歌う気にはなれなかった。おじさんは無理強いすることなく、俺にステージに立つことを勧めた。あんなことがあっても、歌うのは楽しかった。それでももう、アカペラをやる気はなかった。普通に生活していたら、誰も俺に気づかなかった。だからこのまま、卒業まで目立たつ生活できたら良いと思っていた。
ヘッドホンをして読書をしていれば、誰も声をかけてこなかった。
新学期が始まって隣の席になった女は、ヘッドホンの音量をしのぐ音声で俺に挨拶してきた。
「黒田くん、今日から隣だね! よろしくね!」
「……よろしく」
それが紅木千秋だった。
千秋は声だけではなく、言動もやかましかった。よく笑い、よく動き、よく食べる。ヘッドホンをしてても、千秋の声は聞こえてきた。
一学期の終業式、俺は千秋のハンカチを拾った。あいつはああいう落ち着きのないやつなので、ハンカチを落としたことにも気づかないようだった。
俺が声をかけようとしたら、違うクラスのやつが千秋に声をかけた。彼女たちは渡り廊下の途中で立ち止まって、会話をし始めた。俺はハンカチを渡すタイミングを見失って、彼女たちの会話が一段落つくまで聞くはめになった。
千秋と一緒にいる女の子は、合唱部らしかった。うちの学校で一番有名で、最も厳しいだろう部活だ。
千秋は泣きだした女の子をなぐさめて、「アカペラ部に入ればいいよ!」と言った。
どうやら千秋は部員集めに苦労しているようだった。正体がバレたら面倒なことになりそうだ。俺はそのとき、千秋に関わらないようにしようと誓った。
パラ、パラと本をめくる音が部屋に響いている。俺はページから視線を外し、壁掛け時計を見た。16時か。停学っていうのは案外暇なものだ。小学校のときは学校なんて行かなくても平気だったのに。あいつ、今なにしてるんだろう。アカペラの練習かな。小柄な少女の姿を思い浮かべて、俺はふっと表情を緩めた。扉が開閉する音がして、叔父が入ってきた。
「おかえり」と声をかけると、「ああ」と返してくる。このひとは俺に似ている。甘いものが好きで、無愛想。だけど意外と執着心が強い。現に、叔父の履いているブーツはオークションで粘りに粘って競り落としたものだ。好きなものばかり追い求めていたら、一人になっていたらしい。叔父を見ていると、将来こうなるのだろうかとちょっと怖くなる。いまは結婚のイメージなんて全然沸かないけど。
俺は部屋の隅に備え付けられているキッチンへ目をやった。ぼんやり見ていたら、そこに立つ千秋の姿が思い浮かんだ。あいつ、料理できなさそう。なんせ幼馴染に弁当作ってもらってるくらいだからな。……って、なんで結婚ってワードで千秋が出てくるんだ。
かぶりを振る俺の前に、サイダーの缶が置かれる。頭を冷やすために缶のプルトップを引いていると、叔父が口を開いた。
「さっき千秋ちゃんに会ったよ」
「千秋? なんで」
「公園で一人練習してたぞ。捨て猫みたいな目して」
「表現が気持ち悪い」
そう言ったら頬を引っ張られた。あいつ、なんで一人でいたんだ? 他のやつらは都合が悪いんだろうか。痛む頬を撫でながら考え込んでいたら、叔父がこういった。
「なあ、一回コウと話したらどうだ」
「話すって何を」
「色々だよ」
あっちが話したがらないのだからどうしようもない。俺は本に目を落として言う。
「停学はたった3日だ。その間我慢すればすむ」
「おまえらしくないな。校則なんて守るタイプか?」
「そうだよ。学校じゃ読書好きの根暗男子で通ってんだ」
「卒業までそのキャラで通す気か」
「ああ」
「つまんないやつだな」
「いいだろ、この店にはちゃんと貢献してるんだから」
俺は本を閉じて、自分の部屋に向かった。叔父の声が追いかけてくる。
「なんでもいいけど、千秋ちゃんに心配かけるなよ」
わかってるよ。部屋に入った俺は、ベッドに寝転がった。本の続きを読む気にはなれない。スマホが音を立てたので、千秋かと思って手をのばす。しかし、聞こえてきたのは違う声だった。
「あっ、黒田か?」
「桃瀬先輩?」
「ちょっと聞きたいことがあんねん。会長の好きなもんってなに?」
なんでそんなことを聞くのだろう。
「そんなことより、今日練習はしてないのか」
「え? してへんよ。なんで」
「……いや、別に。コウは辛いものが好きだけど」
「辛いもんか~よっしゃ、わかった。ほじゃな!」
ぶつっと通話が切れる。俺はため息をついて、スマホを放った。それきりスマホは着信を告げなかった。
その日俺は、夢を見た。
マネージャーを殴ったという記事が、掲示板に貼られている夢。クラスの奴らやアカペラ部のみんながひそひそとささやく。
――最悪やん。
――見損なったよ。
――偉そうなくせに、最低なやつなんだな。
待ってくれ。話を聞いてくれ。離れていくみんなの中に、千秋の姿もあった。
――ミナトのほうがいい。だって、ミナトはひとを傷つけたりしないもん。
千秋は六条ミナトと寄り添って去っていく。
俺は勢いよく起き上がり、息を吐いた。首筋や額に汗が滲んでいる。
「……っ」
震える手で顔を覆って、声を押し殺して叫ぶ。もう嫌なんだ。信じて裏切られるのは、もう嫌だ……。
最初のコメントを投稿しよう!