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花を生けた。手折った花を水の入った瓶に入れる。それだけでなぜか様になる。 きれいだね。と笑いかけてふと思う。これは花にとっての延命措置に過ぎないのだと。 花は自然に咲いている様が美しいと、太古の日本人はありのままを絵に残した。 実際、自然に咲く花もきれいで素敵だ。しかし、たとえば自身が花壇の世話をするとなるとどうだろう。土の状況や花の成長具合、水の量等々しっかり世話を焼いてやることはできるだろうか。 私はマメなタイプではない。手折った責任は取ろう。限られた命を愛でてやろうと思う。 命には限りがある。植物も動物もそれは変わらない。私は病院で管につながれ、延命治療を受けるような人生に否定的であった。食事もとれず、痛みも訴えず、意識もはっきりとしない、ただ「生きている」という状態にあるに過ぎないそれに、意味があるのだろうかと、そう思っていた。 花を生けて思う。朽ちていく花に思う。いずれ朽ちていくのは分かっているのに、長く生きて欲しいと。色褪せても美しいと。花が生きていたいのかなんて口も利かないからわからない。痛みなんてわからない。ただ生きていてほしい。 なんとなく、わかってしまった。 今日も、惰性で水をやる。世話をする。口も利かない、生きているのか死んでいるのかもわからない確実に朽ちていく存在に。 私もいつか花になるのだろうか。
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