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逃亡
冬の太陽が沈もうとする空の下、駅前の喧騒の中を私は一人歩いていた。道行く大勢の人が俯く私をチラチラと見つめる。その視線に気づいて振り向くと、誰もが目を反らしたり、スマホを見つめて素知らぬ顔で通りすぎて行く。
ずっと昔からそうだ。学校でも公園でも遊びに入れてもらった事はないし、誰かに自分を見つめてもらったことなど一度もない。大人たちも同じ年頃の子供達も誰もが私を見ないようにした。生まれてから17年間ずっとそうだったし、これからも変わる事はないのだろう。
冷たく乾いた風が襲い掛かり、私は思わず立ち止まり、凍えた両手を組んで息を吐きかけた。真っ赤に熟れた手は少しも暖まらず気を紛らわす事くらいしかできない。冬の寒さは次第に鋭利な痛みに変わり、苦痛を与えることを知っている。
……コートや手袋はおろか、靴下すらない私にはこの寒さは毒だ。速く風のしのげる場所へ逃げないと。
腕をさすり、当初の目的地であるプラットホームに向けて歩みを進めた。
駅のホームに入り、キップを買おうとズボンのポケットから出したジップロックの中を確認する。一万円札が三枚と千円札が七枚に沢山の小銭、通帳と印鑑、カードが入っている。
……これで逃げきれるだろうか。
捕まったらもう二度と地を踏むことはできないだろう。
身震いしながら私は腕をさすりながらプラットホームへの階段を上る。剥き出しの両腕は冷えきっている。
服を着る暇もなく、買う時間も惜しんで逃げ出したからこの寒さの中をTシャツとハーフパンツという部屋着でいるから注目の的となっているのだろう。プラットホームでも横目で見られていることに私は気づいていた。
アナウンスとともに目の前で電車が止まる。扉が開くと暖かな空気が溢れて来るのと同時に人々が降りてくる。
「あぁ、今帰るよ。今日の夕飯はハンバーグが良いなぁ。な?頼むよ。それと由美はパパの帰りを待ってくれてるか?」
電車から降りてきた一人のサラリーマン風の男はスマホを片手に喋っている。
幸せそうな表情だ。目尻は下がり口角はだらしなく緩んでいる。きっと温もりに満ちた幸せな家庭なのだろう。
私にとって家族とは恐怖の象徴だ。父親は悪魔。泣いたら泣き止むまで暴力。母親はただ見ているだけ。一度だって助けてはくれなかった。でも、それも今日まで。これからは遠くへ逃げるのだ。
男性が出てきた電車へ足を踏み入れると一層暖かな空気が私を包んだ。辺りを見回して空いてる一つの席に座り、カバンを膝に置いた。
ポケットからジップロックを取り出し中身を見つめる。財布を持たない私はこれに入れるしかなかったのだ。
中学校を卒業して看護の専門学校に入り働きながら資格を手に入れた。家に金を入れながらもコッソリ貯めてようやく逃亡資金が貯まった。
あぁ、と私はため息を吐く。
以前は誰も私を見てはくれなかったことも、声をかけて貰えないことも辛かった。でも今日は違う。誰も私を見ないで欲しい。覚えないで欲しい。そして遠くへ逃げるのだ。
私はふと窓に映った自分の姿を見る。薄汚い半袖にハーフパンツのこの格好は目立つ。取り敢えずマネキンが着るような可愛い服が欲しい。
私は自分のキレイな姿を想像し、思わず「ふふ」と声が漏れたが、電車の音にかき消された。
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