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「まさか…あの借金の詫び状が…奥さんの直筆ではなかったなんて…」 大衆食堂店主の間宮は、愕然とした表情をしながら、独りごちた。 「奥さんの敦子さんを呼び出して殺したのですか?」 沢村は静かに聞いた。 「ええ…。奥さんの携帯の電話番号を、日立の携帯を見て知っていたので連絡しました。日立には借金をまだ返して貰ってないから、と告げて…」 間宮はうつむいたまま話し始めた。 「それで日立殺しの重要証人に成り得る奥さんを自殺に見せかけて殺し、前に奥さんから貰った詫び状を偽造して、彼女が夫殺しを自白しているかのような遺書に仕立てた。しかし、その遺書があなたの墓穴を掘りましたね」 「…。」 「日立を殺した後、石川啄木の「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと」の句と「ローマ字日記」を死体のそばに置いたのもあなたですね?それで「ローマ字日記」に似せて書かれた日立の日記に出てくる奥さんや近松氏、浮気しているキャバ嬢の安西遥に疑惑の目が向くように仕向けた。日立の携帯の中の、近松氏と敦子さんの仲睦まじいツーショットを見つけたあなたは、それを削除することで、近松氏か敦子さんが疚しい証拠を隠滅したかのように見せかけた。ところで、日立を何故殺したんですか?やはり借金の件ですか?」 「いや、殺すつもりはありませんでした。日立のマンションには前に行ったことがあって、その時、日立が書いていた日記を見せて貰いました。あの日、別に日立の部屋に借金の取り立てに行ったわけでもないんです」 間宮は急に沢村の方を見てそう言った。 「ほお、それでは…」 「私は石川啄木の話をしに行っただけだったんです」 「え?啄木の話を?」 「はい…。実は私は、啄木に命を救われたのです」 「え?」 沢村の横にいた玲子が思わず声を出した。 「正確には、啄木と日立に救われたということかもしれません」 「どういうことです?」 沢村が静かに聞いた。 「日立は昔、借金の取り立てをやっていて、ご承知の通り、私の当時の借金の取り立てもやっていました。最初はヤクザまがいの取り立てでしたが、ある時、いつも相棒の男と二人でやってくるのに、その日は一人でやって来て、当時やっていた私の店の飯を食わせろと言いました。私は言う通りにカツ丼を出したんですが、それを食べてから急に、日立は、妙にニヤニヤしながら私を見ていました」 「それで?」 「すると、こちらに一冊の本を投げて寄越しました。啄木の詩集「一握の砂」でした」 「「一握の砂」を?」 「はい。そして日立は私に言いました。"まあたまには本でも読めよ。その本はやるよ"と言いました」 「へえ…」 「最初はそんな全く知らない本に構ってはいられませんでした。何しろ借金が大変過ぎて、利息の返済だけでも四苦八苦してましたから。それで私、ある時、魔が差して、気がついたら一人で季節外れの海に来ていました」 「え?海に?」 「ええ。訳もわからずに行ってしまったみたいなんですが、海に着いてから気がつきました。"自分はここで死ぬんだな"と」 「自殺、ということですか?」 「ええ。しかし、その時、たまたまカバンの中に入れっぱなしになっていた「一握の砂」を、不意に、何を思ったのか、読んでみる気になったんです」 「はい」 「ぱらぱらと読み始めてから、私は胸を掴まれたような気分になりました。そこには私の苦しい心情そのものが書かれていたからです」 「え?」 「死ね死ねと己を怒り もだしたる心の底の暗きむなしさ」 「啄木の句ですね」 「はい。気の変わる人に仕えてつくづくと我が世が嫌になりにけるかな」 「…。」 「死ぬことを持薬をのむがごとくにも我はおもへり心いためば…はたらけどはたらけど猶我が生活楽にならざりぢっと手を見る」 「間宮さん…」 「頭の中に崖ありて日毎に土のくずるるごとし…死にたくてならぬ時あり はばかりに人目を避けて怖き顔する…東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる…しっとりとなみだを吸へる砂の玉涙はおもきものにしあるかな…」 「…。」 「啄木がどういうつもりで、これらの句を書いたのか、私にはわかりませんでした。しかし、これは全て私の気持ちがそのまま書かれた句だと、あの時、私は思いました。でも、啄木はこれらの句を詠んで自殺したわけじゃない。短い生涯でしたが、生き続けたのです」 「そうですね…」 「大という字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来たれり…まるで啄木に、"まだ死ぬな"と言われているようでした」 「そうですか…」 「私は、その日、何事もなかったように、季節外れの誰もいない海から帰還しました」 「…。」 「私はそれから「一握の砂」を暗記するくらい毎日読みながら、借金を返すことに専念しました。店を一旦畳んで、金が稼げる肉体労働をいくつも転々としながら、徐々に借金を返し、何とか、時間はかかりましたが、完済することが出来ました」 「よかったですね」 「ええ。それでまた新たにこの店を新装オープンすることが出来ました。あの時、訳もわからず海に行き、そこで死んでいたら、この店などありませんし、私も今ここにはいません。私には、啄木という人は、命の恩人なんです。そして日立も…」 「じゃあ、じゃあ、その恩人の日立氏を何で…?」 玲子は堪らず声を上げた。 「私は店が軌道に乗るようになると、順風満帆な生活の中で、ただ慌ただしく日々の忙しさに追われるようになりました。安定した毎日を送るようになったんです。そんな頃、この店に、日立が昔とは逆に借金を申し込んできたんです」 「そうですか…」 「昔のよしみもあるし、それに日立に世話になったという気持ちもありましたから、私は一も二もなくすぐにお金を貸しました。それから日立は何回も借金を頼みに来ましたが、その度に貸し続けました。しかし、日立は一向に返済をしてきませんでした。私は取り立てるのもどうかと思い、しばらくはそのままにしていました。しかし、ある日、日立の奥さんから、借金の返済が滞っていることの詫び状が届きました。日立本人からではなく、奥さんからです。その時、何となくですが、日立が周りに迷惑をかけ続け、奥さんにも苦労をかけているような気がしました。それで日立に連絡を取り、"啄木の話がしたい"と告げると、彼は私が「一握の砂」を読んだことが嬉しいらしく、すぐに承諾し、私を自分の部屋に招きました。その時、啄木の話をしながら、「ローマ字日記」の話や、日立が似せて書いていた彼の日記を読みました。それを読んで、私の想像が当たっていたことがわかり、日立のやっていることを冷ややかな目で見るようになりました」 「確かに日立氏の素行はよくなかったですよ」 「私はもう日立に関わるのはやめようと思いました。店はうまく行っているし、昔と逆の立場になったからって、日立から取り立てる気にもならず、このまま借金をチャラにされても疎遠になろうと思いました。しかし、たまたま奥さんからの詫び状を読み返していて、日立は昔の自分のように、今苦しんでいるんじゃないか?と思いました。それなら、前に日立が自分にしてくれたような暗黙の励ましをするべきなんじゃないかと思うようになりました」 「それで"啄木の話をしよう"と告げて、あの日、また日立の部屋に行ったんですね」 「はい。日立は夜はキャバクラなどで飲み歩いているようなので、まだ部屋で燻っている午前か正午ぐらいの時間に行かないと会えないなと思い、バイト店員が休憩中に、店を一時的に閉めて日立に会いに行きました。日立はまだ寝起きの顔をしていましたが、私を迎えてくれました」 「はい…」 「最初は茶飲み話から啄木の話をしていましたが、私は徐々に借金の話、奥さんの話などをし始めました。そして持って行った「一握の砂」を彼に返して、昔とは逆によく読むように勧めたのです。そこから日立の態度が豹変して私を罵り始めました」 「ええ?」 「私は「一握の砂」に救われたと、勧めてくれた日立にも救われたことを告げました。しかし彼は啄木の本音はそんなものではない。啄木の本質は「一握の砂」のような綺麗事にではなく、「ローマ字日記」の中にあると言い出しました。そしてそれを似せた日記を書いている自分こそが、最も啄木ににじり寄った人間だと言い始めました。お前は何もわかっていない、綺麗事で生きている似非な俗物だとまで言われました。腹は立ちましたが、借金や奥さんのことを言われたから逆上してるのだと思うことにしました。その時、急に奥さんが帰って来たんです」 「それから?」 「日立は私が借金の催促に来ていると思っているので、妻にまだお金を返していないことを知られたくないようで、私に隠れろと言って、奥の風呂場に私を行かせました。しばらく私はそこにいましたが、急に日立と奥さんが大声で喧嘩を始めたので聞き耳を立ててしまいました。奥さんは借金のこと、日立の浮気のことなどなどについて怒っていましたが、日立は悪びれることもない態度で接していました。そのうち日立も怒鳴り出して、奥さんを殴っているようでした。私は飛び出して行って止めるか否か戸惑いましたが、結局飛び出して行ったんです。でもその時は、奥さんはすでに外に逃げたようで、もういませんでした。日立だけが怒りながらそこに立っていました。その時日立は何度も啄木の句を繰り返し叫び始めました。"一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと"と」 「はい…」 「それが日立の口癖に近いほどのお気に入りの句であることは、何となく知っていましたが、私に対して、何度もこの句をぶつけて来ました。私に対して、"一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと"と怒鳴り始めました」 「…。」 「そして、"お前が好きな「一握の砂」の啄木の句だ"と言って嗤いました。その後も、"どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな"と「一握の砂」の中の啄木の別の句を連呼して嗤っていました。そして、"お前に「一握の砂」の本を渡したのは、あれを読んで、借金で追い詰められたお前が絶望し、世を儚んで死ぬかもしれないと期待したからだよ"と言ってさらに嗤いました。日立は私を励ますために「一握の砂」を渡したわけではなかった。その逆だったのです」 「そんな…」 「私は腹が立って、借金の取り立てに来たつもりでは全くなかったけど、つい怒りに任せて"今すぐ全額貸した金を返せ!"と怒鳴っていました。すると日立は、"どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな"を連呼して怒鳴りながら、机にあった鉄製の灰皿で私を殴ろうと立ち向かってきました。そこで次第に揉み合うようになり、気がついた時には…」 「あなたが日立を殴り殺していたというわけですか…」 「はい…」 「そうですか…」 沢村は溜息を吐いた。 「その後は、私の愚かで醜い保身です。私は苦労してやっとこの店を軌道に乗せた。今更全てを失うのが怖くなりました。そこで沢村の口癖の啄木の句と、日立の日記の大元である「ローマ字日記」を日立の死体のそばに置いて、犯行が日記に出てくる、日立に苦しめられている奥さんや友人に向くように擬装しました。本当は日立が書いていた日記を置きたかったんですが、日立は日記を奥さんに見られないように何処かに隠していたので、仕方なく「ローマ字日記」を置いたのです。そしてお察しのように、私はあの日立を殺害した日、部屋の玄関に靴を脱いでいました。あの時部屋に帰ってきた奥さんが私の靴のことを覚えている可能性が高いと思い、醜い保身から気が気ではなくなり…」 間宮はガックリとうなだれながら、床に膝をついた。 しばらくすると、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。 沢村と玲子は、うなだれた間宮をしばらく見つめていたが、ふと、後ろから牛若警部と椿刑事がやって来たことに気がついた。
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