58人が本棚に入れています
本棚に追加
1
そのワンルームマンションは、駅から少し離れたところにあり、交通の便がいいとは言い難い場所にあった。
編集者の吉岡玲子は、その日、ライターの日立了の住むワンルームマンションを探して歩き回っていた。
ようやく見つけた、そのマンションの階段を玲子は上っていき、二階の隅にある日立の部屋に足早に向かった。
「ったく、この忙しい時に」
実は日立には、ある取材記事を依頼していたのだが、原稿の締め切りが過ぎても一向に連絡がないため、玲子は何度かメールや電話を入れたのだが全く音信不通状態となっていたため、仕方なく日立の自宅を訪ねる羽目となったのだ。
二階の奥まで行くと、玲子はさっそく備え付けのインターフォンを押した。
だが何度押しても、返事がなかった。
不在なのか?
まあそれもありうる。
原稿を放ったらかしでどこかへ出かけている可能性は十分にある。
原稿料の前借りに応じて先にお金を渡してあるのに、もう何て奴!
玲子は憤慨しながら、もう一度インターフォンを押し続けた。
しかし、玲子はその時、ふとドアノブに目を向けた。
まさかな、そんな不用心なことがあるはずは…
そう思いながらも、どうしても気になった玲子は、一か八かでドアノブに手を掛け、回してみた。
ドアノブが回った!
ということは、部屋は施錠されていないのだから、日立はこの中にいるということか?
ひょっとして、こんな真っ昼間にまだ寝ているのか?
そう思いながら、玲子は「失礼しま〜す」と一応声を掛けてから、ドアノブを再度回し、そのまま部屋のドアを開けて、中に入った。
玄関で足踏みしながら、部屋の中に入るか否か玲子は躊躇した。
そこでもう一度、家主に声を掛けた。
「すいませーん、日立さん。いらっしゃいますか?吉岡ですけど」
だが中から返事はなかった。
「あの、原稿の件なんですけど。締め切りとっくに過ぎてまして。どうなってますか?」
やはり返事はない。
仕方なく玲子は、ローヒールを脱いで部屋に上ることにした。
勝手に部屋に入ったことを日立に怒られたら、原稿が遅れに遅れていることや、原稿料の前借りの件を指弾してやろうと思った。
「失礼しま〜す」
部屋に入り、キッチンを抜けて、その奥にある扉に手を掛けた。
ワンルームマンションだから、この扉の向こうがリビングだろう。
そこでまだ呑気に寝ているのかもしれない。
玲子が扉を開けると、リビングルームの様子が一望出来た。
すると。
「キャー!」
思わず玲子は悲鳴を上げた。
目の前には、血を流して倒れている日立の姿があった。
「ちょ、ちょっと日立さん!」
玲子は日立に恐々近寄った。
だが少し怖くなって、ある程度距離を取って、遠巻きに倒れている日立を見下ろした。
日立が息をしているようにはまるで見えなかった。
玲子はすぐにスマホから警察に通報した。
大変なことが目の前で起きているのに、あまりに唐突過ぎて、現実感がまるでなかった。
夥しい血が、日立の死体の周りに飛び散っているのに気づいて、急に背筋が寒くなった。
警察に通報し、スマホを肩にかけたトートバッグにしまいながら、玲子は目線を、否が応でも日立の死体の方に向けざるを得なかった。
だがその時、血まみれの死体の周辺の床に、何かが置かれていることに気がついた。
「何?」
玲子は目線を近づけて、そちらを凝視した。
するとそこには、文字の書かれた色紙と、一冊の本が置かれていた。
色紙の文字の方をさらに注視した。
色紙には、「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと」
と書かれていた。
そしてその傍らに置かれた本は、石川啄木著「啄木・ローマ字日記」であった。
「啄木…?」
玲子は石川啄木の本を少しは読んだことがあった。
だから、色紙に書かれている文面が何かも、すぐにわかった。
「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねといのりてしこと」
これも啄木の一句であった。
何で啄木の句と、「ローマ字日記」が死体の傍らに置かれているのか?
どう見ても、日立が生前まで本や色紙を眺めていたような痕跡はなかった。
明らかに死体の傍に、第三者がわざわざ置いていった恰好に見える。
ということは…
これって、見立て殺人?
ミステリも多少は読む玲子は、すぐ短絡にそう推理した。
でも、あながち間違いではないかもしれない。
玲子は警察が来るのが急に待ち遠しくなった。
この推理を第一発見者の証言として、警察に話そう。
目の前の日立の死体に手を合わせながら、くだらぬ功名心に疼く自分が、玲子は少し恥ずかしかったが、そのことを心の中で死んでいる日立に詫びながらも、どうにも好奇心がおさまらなかった。
被害者の無念を晴らす協力がしたいだけだから…
玲子は心の中で、そう自分に奇妙な言い訳をしながら、警察がやって来るのをひたすら待った。
最初のコメントを投稿しよう!