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…いまから28年前。
私の日課は朝、目が覚めたら物陰に身を潜め、息を殺すことから始まりました。
そうでもしなければ『痛くて怖いこと』が起きるからです。
だから少しでも父親の視界に入らないよう、小さな体をさらに縮めていつも涙を堪えていた。
家族は四人。公務員の父と専業主婦の母、幼稚園児の私と、2才の幼い妹。
初めは父の職場が用意した官舎で暮らしていたのですが、私の就学に伴って母親の郷里にある実家で祖父母と同居生活をすることになり、私は卒園後すぐに暮らし慣れた官舎から祖父母の家に引越しをする運びになったのです。
『視界に入る』それだけで父は激昂して声を荒げ、私を力一杯殴ります。
少しでも誰かの目がある場所に越せば、これを期に暴力が少し和らぐのではないかと、私は僅かに期待しました。
しかし外面がいい父は周囲の目を欺き、監視のない場所を選んでは引きずり込み、腕をつねったり、大人の男の力で足を蹴りあげる。
今だからこそ思えるのですが、父親はまだ精神成長が満足ではない子供だったのでしょう。
幼い私の小さな体には常に殴られてできた疸瘤はもちろん、青アザや紫アザが浮かび上がり、強い痛みを放っていました。
それを黙って見ないようにする母親の、死んだ魚のような目が、今でも負の印象として記憶に焼き付いています。
父は暴君でしたが、確固たる経済力がありました。
なので、母親はうっかり子供を庇ったせいで彼の気分を損ね、見放される目には遭いたくなかったのです。
虐待だなんて、一寸たりとも思っていなかったんでしょう。
自分の子供が柔道の有段者である夫の拳で殴られ、少なくない血を流す有り様を彼女は冷めた目で一瞥すると冊子戸を閉め、『もう何も見たくない』と言わんばかりにカーテンを引きました。
父親が2階の子供部屋の窓からランドセルと教科書を放り投げた時も、彼女は無言で立ち尽くすだけ。
本当に、自分の意思をもたない能面のようだった。
※
小学校に上がり、初めて迎えた6才の晩冬。
この日のことは、成人をゆうに超した今でも、決して忘れることができずにいます。
その日は日曜日でした。
祖父は朝早くから外出しており、祖母と母親は幼い妹を連れて外出して留守です。
残されたのは、父親と私だけ。
血の気が退く思いで、必死に父の視界に映らないように逃げました。
冬の昼下がりの脱衣所は暗く、タイルの床は踏むと足の裏できしきしと嫌な音をたてます。
父が振るう理由のない暴力がただただ恐ろしくて、鍵を掛けられるトイレに行こうとしましたが…子供の逃げ足が大人に敵うわけもなく呆気なく捕まり、そのまま髪を掴まれて引きずられました。
『母親命』な父は、一人置いてゆかれ虫の居所が悪かったのです。
なんて子供じみた奴だろうと見下げていると、ふいに背中を突き飛ばされ私は真っ暗な空間をまっ逆さまに転がり落ちました。
2、3段は落ちたでしょうか。
幸いにも靴下を履いていたので大した怪我はなく、しかし混乱と理不尽に対する怒りから涙が止まりません。
しかも地下室の扉は外側に鍵が付いていて、私がいる内側から開けることはできない仕様です。
扉を叩いて『外に出して欲しい』と叫ぶことにも疲れ、寒さと痛みに赤くなった手を揉み合わせていると、突然扉が開きました。
温かい室内の空気が僅かに届いてきて泣きそうになったのも束の間、父親は―――
『うるさい!!』
そう叫びながら、鬼の形相で冷水が満タンに入ったバケツを振りかぶったのです。
本当に一瞬のことでした。
頭の天辺から爪先まで、刺すように冷たい水でズブ濡れになり、凍える寒さで一言すら発せられない私にバケツをぶつけ、父は扉を閉めました。
6才の幼女にここまでの無体を課して、虐待を問われないのはおかしい。
子供ながらに知識があった私は、爛々と燃える怒りのまま行動を起こしたのです。
当時間借りしていた祖父母の家にはガレージに通じる地下室があり、ガレージには常に鍵はかかっていない。
母方の血縁ばかりが集結して暮らしている状況を日常生活を送るうえで理解していた私は、ここで大声を挙げたらどうだろうと一瞬考えてからほくそ笑みましたよ。
おそらくは、憎たらしい父に大打撃を与えられるだろう、って。
土埃と地下室独特の湿った空気を胸一杯に吸いながら、私は注意深くガレージを押し上げて隙間を作り、玉砂利が敷かれた大庭を横断して当時離れに住んでいた叔父一家に救助を求めました。
元より父を快く思っていなかった叔父一家は、私の話を信じるだけでなく親身に心を砕いてくれた。
家長に等しいポジションの祖母へ、叔父が私の父親の本性や娘に対する残虐な所業を訴えたため大沙汰に『虐待』を責められ、父の立場は完全に失墜。
公務員の癖に『虐待』するのか!
『知れたら免職だろう』ときつい灸を据えられたのですが、結局…娘の命と経済力を天秤にかけた母親は、やはり虐待に関しての証拠を揉み消しました。
母親に、情はありません。
依存心が強く、
常に不安で、
不安であることを高慢な態度で上塗りして、
自分が一番正しいのだと言い張る、とにかく強情な女。
友達には、絶対になりたくないタイプです。
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