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後編
*
「ただいまー、――って、なんじゃこりゃあ?」
どこからか帰ってきたポンちゃんは、皮を剥かれたまま食べられるわけでもなく安置されているみかんの群れに目を剥いて叫んだ。それからハッと思い出したようにお腹を手で押さえ、その掌を見ながら再び「なんじゃこりゃあああ」と太陽にほえるみたいに言い直した。
「なにって、みかんよ。見ての通り」
ポンちゃんの姿を見て落ち着いたわたしは平生の調子で答える。
「いや、そうじゃなくて、なんでおめーは食うわけでもなく皮だけを大量に剥いているんだ? あれか、皮剥きの内職でも始めたのか?」
無論そんな内職などないのはお互いわかりきっていたけれど、もしあったのならわたしにとっては天職だろうなぁ、と思った。無心で皮を剥き続ける。正解も不正解も気にしなくて済む、穏やかな時間だ。そんな人生ならどれだけ楽だろう。
けれどそんなのは夢のまた夢の話だ。
現実のわたしの人生はどこを見ても不正解だらけで、正解を探すことにも疲れてしまった。そんな感情が溢れ出してきて、わたしはぽろぽろと泣き出してしまった。
「うおっ、楓、おめーなんで泣いてるんだよ?」
ギョッとしたようにすっ飛んできて背中を撫でてくれるポンちゃんの優しさに、かえってわたしの涙は後押しされたみたいにとめどなく流れた。
変だ。今日のわたしは。これまで体の奥に隠れていたものが、自分でも気づかないでいた気持ちが突然溢れ出してくるなんて。
まるで、舌にできた小さな口内炎が発露であったみたいに。
そしてわたしは、口内炎と自分の気持ち、そのどちらにもつける薬を見つけられない。正解がわからない。
「……ねえ、ポンちゃん。教えてよ。何が正解なの? わたしはどうすれば正解を選べるようになるの? どうすればポンちゃんみたいに『それでいいじゃねーか』って思えるの?」
そんなようなことを、涙と鼻水混じりにわたしは必死に訴えた。
その最中にも頭の片隅では、「あれ、こんなわけのわからないことで突然泣き出してポンちゃんを困らせているわたしは、恋人として不正解なんじゃないか。いくらポンちゃんが優しいといっても、さすがにヒいているんじゃないか」とか冷静に分析しているわたしがいて、もう何がなんだかさっぱりわからなくなってしまった。
ポンちゃんだってわけがわからなかっただろう。
だって家に帰ったら自分の恋人が大量のみかんの皮を剥いていて、その上いきなり泣き喚いているのだから。もしわたしが逆の立場だったらそれこそ泣きたくもなる。
けれど、ポンちゃんは優しくわたしの頬にそっと手を添え、そして――
「ひぃててて……」
むぎゅぎゅぎゅっ、とわたしの頬の肉を引っ張った。その痛みに涙も引っ込む。
「ら、らにするの……」
予想外のことに唖然としたわたしが問いかけると、ようやくポンちゃんは手を離してわたしの隣にどっこらせと座り込んだ。そして「一緒に暮らさないか」と言った時と同じ顔をする。
「あのな、楓。おめーが何を悩んでいるのか、俺は知らねー。だいたいおめーは要領が悪い上に一人で抱え込むし、自分の気持ちを伝えるのも下手なんだよ。初めて会った時だって、俺が声をかけなきゃそのまま化石にでもなっちまうんじゃねーか、ってそんなふうに見えたもんだ」
「わ、わたしはシーラカンスか……!」
はぁー、と嘆息するポンちゃんにわたしは赤くなりながらも抗議する。ポンちゃんの中でのわたしの評価は散々だけれど、さすがに生きたまま化石呼ばわりされるのは不本意だ。
「はは、だからこそ楓には俺がいねーとダメだ、なんて思ったんだけど。でもよ」
きゅっとポンちゃんはわたしの目を真っ直ぐに覗き込んできた。少年みたいな、それでいて大人びたその瞳に弱々しいわたしの顔が映る。
「俺にだって、何が正解かなんてわかんねーよ」
「え……?」
「いや、だから……楓にはどう見えてるのか知らねーけどさ、俺だっていつも自分の行動が正しいなんて思ってねーんだ。っていうか、そんなふうに思ってる奴がいたら結構ヤベー奴じゃねーか。自分は絶対に正しいとか、神さまかっつーの」
どこか突き放したような口振りのポンちゃんに、わたしはびっくりしてしまった。
だって、わたしにとってはそうだったのだ。ポンちゃんはいつも正しくて、わたしを導いてくれる神さまみたいな人なんだって。
初めて会った時から、ポンちゃんはわたしの正解だったのに。
なのに、それを否定されてしまったら。
わたしは何に縋って生きればいいのだろう。
「でもっ……だって、ポンちゃんは、わたしが悩んでたらいつも『それでいいじゃねーか』って、正解を教えてくれたじゃない。だからわたしは、自分で正解を見つけられなくても、なんとかやってこられたのに……」
わたしはしどろもどろになりながら、再び浮かんできた涙を掌でごしごしと拭った。
子どもみたいに泣きじゃくるわたしの頭を、ポンちゃんは優しく撫でてくれる。
「楓、おめーは本当に不器用だなぁ。正解なんて、見つけらんなくていいんだよ。ていうか、何が正解かなんて後々になるまでわかりゃしねーんだ。だから俺は『それでいいじゃねーか』なんて言うんだぜ。正解を選んでるからじゃあない、選んだものを正解だと思うしかないんだ。俺だって自信なんていくらもないよ。でも『それでいいじゃねーか』って言うと、『うん、それでいいね』って、楓、おめーが笑って頷いてくれるから。だから俺も心からそう思えるんだ。楓のおかげで自分を信じられるんだ。それでいいじゃねーか?」
それは、初めてポンちゃんがわたしに対して見せる弱さみたいなものだった。
わたしはいつも飄々としていたポンちゃんの心の中にも、わたしと同じように柔らかくて脆い部分があることを知る。けれど、その弱さと脆さはポンちゃんの穏やかな声に乗ってわたしの耳を通り、わたしの涙でふやけた心に温かく寄り添ってくれた。
いつもいつも、ポンちゃんがわたしを助けてくれると思っていた。彼の「それでいいじゃねーか」に救われていた。
でもそれだけじゃないのだ。わたしもポンちゃんを助けていた。そんなこと全然思いもしなかったけれど、わたしはポンちゃんに導かれるだけじゃなかったのだ。
それだけで、わたしは少しだけわたしのことを上等に思えた。
「ポンちゃん」
「あー、なんだよ楓」
どことなく照れたようにポンちゃんはそっぽを向く。その様子がなんだか可愛くって、わたしは思わずくすりと笑ってしまった。
「……今の今まで泣いてたと思ったら、今度はなに笑ってんだ?」
「んーん、なんでもないっ」
ポンちゃんの言う通り、わたしはきっと要領が悪くて、不器用で、色々と抱え込んでしまう人間だ。だから、正解だとか不正解だとか、わかりもしないことを考えて悩んで、不安に押しつぶされそうになる。多分これからだってそんな時はくる。
けれど、そんな時は思い出すのだ。
今日のポンちゃんの言葉を。
「あ、そうだ」
と、ポンちゃんは思い出したようにガサガサといくつかビニール袋を持ち上げてみせた。
「何、買い物に行ってたの?」
今さらになって彼の外出の理由を知り、わたしは問いかける。
ポンちゃんは返事代わりに袋の中身をみかんまみれのちゃぶ台の上にぶちまけた。
中から出てきたのはレモン数個にビタミン剤、アイマスクやらハーブティーなど、とりとめもない雑多なものたちで。
首を傾げるわたしに、ポンちゃんは素っ気ないふうを装って言う。
「いや、楓が口内炎のこと気にしてるみたいだったしよ。効きそうなものを色々買ってきたんだよ」
その言葉にわたしはハッとする。鏡の前で口内炎を睨んでいたわたしに、ポンちゃんはビタミンやら睡眠やら心のゆとりやらと口にしていた。
それを思い出すとちゃぶ台の上に転がったものたちにも合点がいく。
それにしても、とわたしは若干呆れた顔をポンちゃんに向けた。
「気持ちは嬉しいけど、こんなに色々買ってこなくても良かったんじゃない? こんなに多いんじゃ、何が本当に効くのかわからないじゃない」
そう言ってから、わたしはまた無意識の内に正解を探していたことに気づく。
そんなわたしの動揺に気がついたのだろう。
ポンちゃんはにやり、と不敵な笑みを浮かべる。
「なあ楓、それじゃあ選んでみるか? どれが一番口内炎に効くか」
そう言ってポンちゃんはわたしに選択権を委ねた。
それはきっと、これまでわたしがポンちゃんと過ごしたなかで初めてのことで。
わたしの心臓はとくり、と小さく打つ。
今までのわたしだったら、こんな些細なことでさえ必死に正解を探して、それでも見つけられなくて、自分を信じることができなかった。
けれど。
今ならきっと。
正解なんて、選べなくていい。
「それでいい」とわたしが思えれば。
「それでいいんじゃねーか」とポンちゃんも笑って頷いてくれる気がするのだ。
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