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前編
舌の先に口内炎ができた。
子どもがあっかんべーをするみたいに鏡の前で舌を出すと、小さな白いぷっくりが見える。ここ数日しぶとく居座り続けているそれは、場所が場所だけにとにかく邪魔でしょうがない。水を飲んでも沁みるし、物を食べたりすると舌を動かすたびに思わず顔をしかめてしまう。
早くどこかへ消えてくれ、と思うが、口内炎はわたしの舌先に骨を埋める覚悟でも持っているかのように頑固に残り続ける。
そこにわたし自身にはない強い意志みたいなものを感じて、なぜだか口内炎ごときに負けたような気持ちになった。
「おめー、どうしたんだよ? 一人でにらめっこなんかして」
洗面台の鏡の前でしかめ面をしていると、わたしの肩越しにポンちゃんの顔が現れた。
「あのね、舌に口内炎ができちゃって」
証拠として舌を出したままふにゃふにゃと答えると、ポンちゃんはわたしの舌先をとっくり検分してから得意げに診断を下した。
「おめー、こりゃあアレだよ。ビタミンが足りてねーんだよ」
「ビタミンが」
わたしが真面目くさって聞き返すと、ポンちゃんは子どもみたいに鼻の穴を膨らませて言葉を続ける。
「あとは、そうだな、ストレスもあるかもな。心のゆとりが足りてねーんだな。他には睡眠時間とかか?」
「ちょ、ちょっと待って」
ぽいぽいと放り投げるようなポンちゃんの声を逃さないよう、わたしはリビングに戻るとちゃぶ台にメモ用紙を置き、その上にペンを走らせた。
まず最初にビタミン、とペン先がカタカナ四文字を紡ぎ出す。学生時代の名残りか、やけに丸っこい文字に、なんとなく弱そうな印象を受ける。
次に、「心のゆとり」。こっちは丸みを帯びた字の方がゆとりがある気がする。
その下に、「睡眠時間」と若干ぎこちない筆運びで書く。画数の多い字はバランスがすぐ崩れてしまうから苦手だ。
苦心して書きつけた言葉たちを見下ろして、わたしはまあまあ満足した気持ちで頷いた。
ややあって呆れ顔のポンちゃんがちゃぶ台の上から覗き込んできた。その手には二つ、小ぶりのみかんが握られている。わたしたちのアパートの部屋のキッチンには無駄に大きなダンボール一杯にみかんが詰まっているのだ。
ほいビタミン、とポンちゃんは手に持ったみかんを片方わたしによこしながら、メモとわたしを胡乱げに見遣る。
「楓、おめー何書いてんだ?」
「わたしに足りないものを忘れないように、メモ」
そう言って先ほどポンちゃんが教えてくれた言葉を彼の鼻先に掲げる。
「はぁ、お買い物メモじゃあるまいし、そんなもん書いてどうすんだよ」
どっこいしょ、とまだ二十四のくせにやけにおじさんくさい動作で座り込むと、ポンちゃんは皮を剥いたみかんを一口で豪快に呑み込む。
わたしはというと、あの白い薄皮を綺麗に剥かないと気が済まない性分なので、ちまちまと一房ずつ剥きながら反論した。
「こうして書き出してみないと、何が自分に足りないかわからないんだもの」
「わかってどうすんだ?」
「それは、こう……頑張る?」
わたしが言い淀むとポンちゃんはケタケタと笑った。
「ほれみろ、どうもできねーじゃねえか。おめーは考えも足りないなぁ」
「むぅ」
反論しようとして口を開きかけるが、ポンちゃんの言う通りだった。確かにわたしには考えも足りない。メモに「考え」を書き加える。「まだ書くんかい」とポンちゃんは呆れた。
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