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奥村勇司(おくむらゆうじ)は駅を出ると、交差点で無意識のうちに大きな溜息を零した。原因はもちろん判っている。この異常な人混みが嫌なのだ。誰かにぶつからないように神経を張り詰めさせて歩かなければならず、たった30mほどの距離なのに、渡りきると、どっと疲労に襲われつつ仕事に向かうのが毎日の日課だった。
毎朝毎朝繰り返されるこの儀式に押し潰されないように、勇司は、全く違う事を考えながら…要するに、白昼夢を見ながら歩いた。数カ月前に退職した元同僚のように、自分で商売を始めればこの地獄のような人混みから抜け出せるのか。在宅勤務もいいかもしれない。ああ、でも…。
そこまで考えたところで、前を歩く誰かが懐からUSBメモリーを落とした。
「お、おい…」
勇司は慌てて拾って声をかけてみたが、誰も振り返らなかった。誰も勇司に注意を払わなかった。
「……」
勇司はUSBメモリー片手に右往左往としたのだが、信号が点滅を始めると、慌てて交差点を渡りきり、改めて周囲を見回してみるが、何かを探している風情の通行人は一人もいなかった。
「…ま、いいか」
勇司はUSBメモリーを懐に仕舞い、仕事に向かった。
へとへとの状態で帰宅して、倒れるようにベッドに横になると、何かが胸にあたって鈍痛が走った。
「…?」
探ると、朝、拾ったUSBメモリーが出てきた。
「ああ…」
まさか強力なウィルスでもついているのか、とは考えなかったわけではない。それ以上に、このUSBメモリーの中に記録されている情報が気になった。
勇司は鉛のように重い体を起こし、休みの日ぐらいにしか起動しないPCを起動して、USBメモリーをさしてみた。最初は、ウイルスチェック。
「…問題なし…」
次はいよいよ、中身のチェック。お伽噺の中の主人公のように、中身が判らない箱を開ける前のどきどきはこんなものか、とぼんやりと考えていた。記録されていたのは、完成した小説だった。
「……」
好奇心に負けて読み始めて、読み始めてすぐに勇司は良い意味で後悔した。明日も仕事なのに、またあの人混みを抜けて仕事に行かないといけないのに、もうすぐ日付も変わる時間なのに、こんな面白い話を読み始めたら、眠れないじゃないか。どうしてくれるんだ。
数か月後、勇司はあの人混みから解放されていた。どこかの誰かが落としたUSBメモリーに記録されていた小説を自分のものとして出版社に持ち込み、手放しで絶賛され、あれよあれよという前に天才作家現ると持ち上げられて、めでたく退職を果たしていた。
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