10.夏の暮れと境界線

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「はい、なぎさスタジオの鶴野です。」  2コールも鳴らないうちに、鶴野は電話に出た。 「水野です。」 「ああ…!お電話くれてありがとう。答えをもらえるのかしら?」 「……はい。その前に、ひとつ聞いても良いですか。」 「えぇ。私に答えられることなら。」 「…なんで、俺なんですか。」 「実力を買ってるからよ。」  鶴野は即答した。 「でも、写真撮影の予報とか天気の相談なら、うちの会社で他にもいるでしょう。」  水野が食い下がると、今度は少し、沈黙する。 「…麻衣が、魅力を発揮できるから。モチベーションの管理もマネージャーの仕事だから。」 「………。」  それは、慣れたメンツだと麻衣がやりやすいとか、そういうことか。それともそれ以上の意味か。でも……女性タレントのマネージャーなら、特定の男性と仲良くなり過ぎたら…と、普通は思うはずだ。  慎重に言葉を選びたい。それでも、ある程度こちらの"迷いの意味"がバレるのを覚悟した。 「………悪い虫が着くとは思わないんですか。」 「あら、貴方は悪い虫なの?」 「………。」 「大体、貴方だって、TVで顔出ししてるじゃない。」 「いや、俺は男ですし……」 「男なら、恋愛しても人気に問題ない?女なら、ある?」  否定したいところだが、綺麗事を言っても仕方ない。芸能界はそういうところだ。 「……ある程度は。」 「そうね。」  いったい鶴野はどういうつもりなのだろう。まさかこちらの恋愛を応援でもしているのか。そんなメリット、鶴野からしてみればどこにもない。それじゃあ、カマをかけて釘を刺しにきたのか。混乱する。  しかし次の言葉を聞いて、水野はそんな疑いを持った自分を恥じた。 「でもね。本人の仕事の実力が認められれば、そんな定説、ハネのけられるのよ。性別問わず。麻衣は、そうなれるか、そうじゃなく女の性として消費されて終わるか、その瀬戸際にいる。」  鶴野の言葉は力強い。 「だから、写真集、絶対に成功したいの。そのための、貴方なの。」  鶴野が麻衣を想う気持ちは、水野の想定を超えていた。誰よりも麻衣を信じて、麻衣の本当の成功を願っている。鶴野にとって俺は、その駒に過ぎない。ただし、おそらく有能な駒なのだ。  断れるはずがなかった。 「…わかりました。……やります。」 「ありがとう。恩に着るわ。」  次の打ち合わせの日程調整だけを済ませて、電話は簡潔に切れた。  本社を出て局に向かう。乗り継いだ電車の窓に映った自分の顔を見て、何故か別れた仁科の声が浮かんだ。 『竜二はさ、私との将来なんて、考えてくれてないんだ。』  もし、もしも…俺が麻衣との将来を望んで良いのなら。  鶴野が暗に示したように、足を引っ張るのではなく成長の糧として側にいることを許されるのなら。  絶対に幸せにする。というか、笑顔を壊したりしない。今度は失敗したくない。  そのために、今の自分では足りないような気がした。  これまでの水野は、自分の興味のある仕事をしていればそれ以上の欲は持たない主義だった。しかしそんなんで、麻衣の横に立てるのだろうか。  お天気室の扉の前まで来て、しまった、と冷や汗がつたう。  今日一度も、空を見上げていない。  雲の量は、風は、湿度は、気温は、…どんなだった?  なかなか答えが見つからない。人生で初めて、焦りが募っていた。
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