二人目 去年七月

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二人目 去年七月

夜は私の聖域だ。 夜の間だけ、私は自由になれる。 何者も、私を縛り付けることなんてできない。つまらないこの世界なんてくそったれ。 黒いピンヒールを高く掲げて、私は夜の街を駆け回る。怖いものなんて何一つなかった。 つまらないことばかりが『死』であるこの街では、私にとって『死ぬ』ことでさえも、『死』には値しなかった。 「健二!」 私は彼の務めているキャバクラの前に立っていた。 『ルビー』と書かれたお店の看板がネオンに囲まれてギラギラとその存在を主張している。 そのお店の黒服である彼は、周りにいるお姉様方の視線を気にしているようで、私の登場に辟易していた。 私はそれが可笑しくて、悪戯な笑みを浮かべる。 「ふふ、来ちゃった」 「来ちゃったって、お前……」 「だって健二、最近私の相手してくれないじゃない」 私の声が大きかったのか、健二は本気で慌て出すと、私の腕を掴んで路地裏に引っ張り込んだ。 路地裏に入ってすぐに立ち止まった彼に私はぶつかってしまう。 そんな私に気が付いているのか、いないのか。 彼はくるりと後ろにいる私の方に振り向くと、 「どうして、ここに来た」 どことなく怒っているような、けれどもそれでいて酷く苦しんでいるような、そんな違和感が彼にはあった。 声や表情は怒っているのに、とても悲しい瞳をしていたからかもしれない。 私は何を思ったのか、自分の踵を上げてつま先立ちになると、今にも泣き出してしまいそうなその目尻に唇を落とした。 ふんわりと、煙草の香りがした。 健二は少し呆気にとられた顔をした後、 「どうして」 と今度は囁くようにそう言った。 私は彼を自分の方へ引き寄せて、優しく抱きしめた。 「私にも分かんない。どうしてここに来たのかも、どうしてあなたにキスをしたのかも。……ただ、会わなければいけないような気がしただけ、健二に」 私の言葉を大人しく聞いていた彼は、最後の言葉を聞いた瞬間、嫌嫌と私の首元で頭を振り始めた。 まるで駄々をこねる子どものように。 「……健二、くすぐったいわ」 私がそう言うと、彼はやっと動きを止めるも、未だ私の肩口から顔をあげようとはしない。 私は軽い溜息を吐いて、ゆっくりと彼の背中をあやすように摩ってやる。 「そうだ。夏祭りに行かない?」 その突然の私の提案に彼は顔をあげた。 疑わしげなその目は、私が一体どういった意図で誘ったのかと考えているようだった。 その目をひたと見据えながら、私は思う。 ここのところの健二は分かりやすくて、けどもそれ故に扱いにくい、と。 彼の困惑や悲しみに気が付いてしまうということは、私の中にある決して覗いてはいけない感情の原因にも思いを馳せてしまいそうになるということなのだ。 だから、私は唇をあげて目を細め、明るい声を出す。 例えそれがどれほど無理矢理であったとしても。 彼が、彼自身の悲しみに捕らわれてしまわないように。 『彼のため』と言えば聞こえはいいかもしれない。 それはまるで、さらさらとした舌触りの良い砂糖のような言葉なのだから。 けれど、私は知っている。 『彼のため』ではなく、他ならぬ『私自身のため』に私がそうしていることを。 苦くて、すぐには飲み込めないような粘着力を伴うそれは、私の喉にこびりついている。 もうずっと長い間。 だから、私は一生忘れないのだと思う。 今、私が犯している罪の大きさを。 私はそんな黒く醜い感情を自分の中に押し込んで鍵をかけた。 まだ、もう少しだけ時間を止めさせて。 もう少しだけでいいから。 かちゃん。 鍵の閉じる音がして、私はもう二度とあちら側には戻れないことを悟った。 それでも後悔はなかった。 後戻りができないということは、何が正しいのか分からなくなるということでもあるのだから。 私は私だけを信じていけばいい。 それが、どれほど悲しい人生だとしても。 だから、訝しげにこちらを見る健二に向かって私は微笑んだ。 進むしかない。時を止めたままのこの世界で。 「ほら、覚えていない?去年、夏祭りへ一緒に行ったとき、来年もこうやって一緒に行こうって約束したじゃない」 膨れてみせる私に、健二は呆けたような顔をして、 「あ、あぁ。そう言えばそうだったな」 それはそれは歯切れの悪い返事をした。 私はどうして彼がそんな反応をするのかを知っていながら、気が付かない振りをするしかなかった。 「あ、信じられない。今、絶対忘れていたでしょう」 「そんなこと……」 言い訳をしようと開いた彼の口に私は自分の唇を押し付けた。 早くおしまいにして家に帰ろう。 どんどんと重くなってくる罪の意識に耐えられなくて、私は逃げたのだ。 そうすることがもっと私を罪深くさせていることに気が付きながらも。 もう黙って、と。 こんなに身勝手な私でごめんね、と。 何も傷付きながら生きているのは私だけではないというのに。 身勝手なまま、暗い海の底に落ちていく。 長い長い、沈黙だった。 私の生み出した沈黙。 あぁけれど、一度落ちた私はもう行くところまで行くしかなかった。 この私の作った沈黙の間だけは、その間だけは、健二はどうしようもなく私だけのものなのだった。 ようやく唇を離した私は、そのまま彼の耳元に顔を寄せて、囁いた。 「一週間後、午後六時に神社のはずれで待っているね。……それじゃあ」 絶対に来て、とは言わなかった。 いいや、言えなかった。 だってこれは私から彼に贈る最初で最後の、そして最大の選択肢だから。 一週間後の今日、彼が来なければ私は潔く彼を諦める。 でももし、もしも彼が来てくれたのならその時は……。 私は彼の表情を見ないように、身体を引き離すとすぐに背を向けた。 そしてそのまま早足で大通りの光の中に向かって歩いていく。 「……おい、結局俺は一体どうしたらいいんだよ!!」 彼の悲痛な叫び声が私の背中を追いかけてくる。 私はそれさえも聞こえない振りをして、足を踏み出し続ける。前へ。前へ。 もう、後戻りはできない。 頬に伝う熱い雫はきっと雨が降っているせい。 そういうことにしておこうよ。 からりと晴れた蒸し暑い夏の夜空には、アルタイルが力強く煌めいてはいるけれども。 健二を失ったこの世界は、酷くつまらない。 そして、私にとって健二を失うということは『死』を意味した。 本当に命を失ってしまうことよりも、ずっと。 だから、絶対に来て――――。 一週間はあっという間に過ぎていった。 その日の朝、私は浴衣を取り出そうとして、結局また押し入れの中に戻した。 黒い下地にカラフルな蝶たちが飛んでいるその浴衣に去年の健二は何も言ってはくれなかった。それでも私は十分だった。 健二の頬に赤みがさしたかと思うと、それが次第に顔全体に広がって、まるでりんご飴みたいだったことを私は覚えている。 だから、そっと閉まった。 あの日の健二と今夜の彼は同じようでいて、そして決定的に違ってしまうから。 私が、そうさせるから。 あの日のまま、私は何一つ変わっていないというのに。 「世界は、残酷だね」 手にした暗闇に浮かぶ鮮やかで自由な蝶たちに、私は話しかけた。 まるで重大な秘密を打ち明けるように、こっそりと。 神社前に着いたのは、約束の時間の十分前だった。 夏のこの時間は日が高く、まだ夜の訪れる気配はない。 それでも太陽がゆっくりと沈み始め、思っていたよりも涼しかった。 私は鳥居にもたれて、空を仰いだ。 綺麗なグラデーションを描く空は、まるで幻想の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚するほどだった。 どことなく切なげなその空の色を私は瞳に焼き付けていた。 もしも彼が来ないのなら、この空を覚えていることにも多少は意味があるのだろう。 そんな風に空を見つめていると、私の名前が呼ばれ、私は幻想の世界から引き離される。 声のした方に顔を向けると、健二がこちらに向かって歩いてくるところであった。 ちらりと腕時計を確認すると、針がさしている時刻は午後六時五分。 きっとここに来る際の際まで悩んでいたのだろう。 現に、落としていた視線をもう一度彼に戻すと彼の表情には強い覚悟と重い責任が表れていたのだから。 「健二、遅刻だよ」 私はそれを見て見ぬふりをして彼に言う。 彼は困ったように頭を掻いた後、口を開いた。 「いや。……寝坊、して」 何とも不器用な解答だ。 私は呆れたように目をぐるりと回した。 全く、どうしてこうも分かりやすいのかな。  さそうこうしている内に、次第に辺りも暗くなり始め、祭りの音が、香りが、光が、私たちを誘う。 健二はそれに気が付くと、楽しそうに瞳を輝かせた。 「あ、もう始まっているぞ。行こう」 現金な奴なのだ、夜の健二は。 彼が私に差し出したその手を掴んで、私は最後にもう一度だけ空を見た。 もう、そこにはあの幻影の世界は存在しなかった。 あれはきっと一瞬の魔法だったのだろう。 ほんの一瞬の白昼夢のようなもの。 まるで一時の幸せの権化みたいな。 健二に繋がれた私の左手は淡い熱を放ち、私は自分が生きているのだと強く思う。 私のその思いに気が付いているのか。 いや、健二のことだから気付いてはいないのだろう。 それでも、彼は本能的にすべてを見抜いているから。私の罪も、彼自身の罪も。 私たちはどちらも欠陥品なのだ。 あの日を境に。 けれども、私はそれを見ないようにしていて。 見たくないと思っていて。 彼は、健二は、それに辛抱強く付き合ってくれているという訳なのだ。 同じ罪を背負い、同じ罪を犯した。 逃げ出したいのは私の方なのだけれど。 はしゃぐ彼の背中を見て、私はその優しさにすべてを忘れた。 あの頃のままの私たちは、無邪気で無垢で、そして悲しい程に残酷だった。 一通り、出店を見回った後、私たちは川辺に座り込んだ。 ここから夏祭り最大の見世物である花火を見ようというのである。 川辺には沢山の人が集まっていて、これぞ夏の風物詩といったところか。 そう、昨年もここで健二と花火を見たっけ。 あの日、健二を夏祭りに連れて行ったのはやっぱり私で。 確か、健二の元気がないように見えたから、気分転換にと思って誘ったのよね。 私は一年前の今日を遡る。 ゆっくり、ゆっくり、些細な記憶が壊れてしまわないように。 一年前の私はこの川辺でそっと健二の手を握っていた。 すべての花火が咲き散るまで、ずっと。 どうしようもなく健二が消えてしまいそうで不安だった。堪らなかった。 一年も前のことを思い返して、私は一人笑みを浮かべる。 今年も一緒に夏祭りに来ることが出来た。 それだけで幸せだと思った。 私は今年もまた、健二の手の甲に自分の手を重ねた。 去年のように不安からではなく、今度は健二が隣にいるという安堵から。 ……けれど、どうして彼は去年、あんなにも元気がなかったのかしら。 それに、どうして私はあんなにも不安だったのかしら。 私はふとそんなことを思った。 脳内で警報が鳴り響く。 先ほどまで温かった彼の手が、今ではひんやりとした冷気を放っているような気がして、私は怖くなる。 じわり、と。 背中に汗が伝う。冷たい汗だった。 ……私の隣にいるこの人は一体誰? 私は二つの手が重ねられたところに視線を留めたまま、目を離すことができない。 その時、大きな爆発音を聞いたかと思うと、歓声と火薬の匂いがした。 花火があがったのだ。 暗い夜空に大輪の花が咲き、色とりどりの光が私たちを照らす。 隣に座る彼が口を開いたのが気配で分かった。 「なぁ、俺たち、このままでいいのかな」 躊躇いがちに、けれどもしっかりとした声で話す彼。 その言葉に心臓が早鐘を打つ。 やめて。何も言わないで。 私の思いが言葉になるよりも前に、彼は無慈悲にも続ける。 「こんなことをしていても、あいつは救われないと思うぜ」 喉が渇いている。 まるで干からびた砂漠みたいな喉に、私は粘っこい唾を流して、かろうじて潤いを与えてやる。 出てきた言葉は酷く間抜けなものだった。 「な、にを言っているの、健二」 花火の音が遠くに聞こえる。 賑わう歓声も、火薬の匂いも。 まるでこの世界の出来事ではないみたいに。 私の下にあった彼の手が動いたかと思うと、私はがっしりと彼に肩を掴まれていた。 それでも私は顔をあげようとはしなかった。 嫌だ、絶対に。 「おい、こっちを見てくれよ。頼むから」 泣いているかのような彼の声。 その彼に強く揺さぶられる私の身体。  花火。  火薬。  歓声。  光。 すべてが次第に遠のいていく。 ここは、一体どこなのだろう。 両肩に感じている鈍い痛みだけが私と現実を繋いでいる唯一だった。 「おい!」 今宵一番大きな声で私は一気にこちら側に引き戻された。 私はその声の主をぼんやりと見る。 初めてちゃんと、彼の顔を見た気がした。 幾度も染めたと思われる金色の髪は酷く痛み、潰れたような歪な鼻の形をしているのは、きっと喧嘩で殴られたときの名残だろう。 目の前にいる彼は、ようやく自分の方を見た私に溜息を吐いている。 彼の瞳は真っ直ぐな光を宿していて、私には到底、眩しすぎた。 「……なぁ、俺は――――」 聞こえないよ。何も、聞こえないから。 私は何も聞かないでいいように耳を塞ぎ、何も見ないで済むよう、暗く深い意識の海に飛び込んだ。 どさり。 遠のく意識の片隅で、自分の抜け殻の倒れる音だけが鮮明に聞こえていた。 私の額を伝い落ちる涙の跡も感じていた。 ……あぁ、私の目の前にいるあなたは一体誰?
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