四人目 今年四月

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四人目 今年四月

窓から飛び降りた。 だって、あまりにも夜空が綺麗だったから。 聖なる夜の落とし物みたいに、季節外れの雪が降っていた。 死なないと分かっていたから飛び降りた。 両足複雑骨折だけど。 晴れているのに雪が降っていた。 星と雪が夜の闇を照らしていた。 だから、私の背中にも白い翼が生えてくる、そんな気がした。 堕ちた時の衝撃は何て表現すれば適切なんだろう。 そう、それはまるで自分が堕天使にでもなったみたいだった。 堕ちた時の物理的な痛みよりも精神的な衝撃の方がずっと強かった。 痛くて泣けてきて、私は空を見上げた。 空一面に広がる白い光が、こんなにも惨めな私を唯一慰めてくれている存在だった。 私は、全身の痛みなどまるでないかのように涼しい顔で、飛び降りる前に自分の手に握らせていた携帯電話を操作して、救急車を呼んだ。 自分で自分の後始末が出来るのなら世話ない。 そんなことを考えて虚しさが押し寄せた。 いやそもそも、空しくない人生などあるのだろうか。 空しいから、彼も私も、飛び降りたというのに。 目が覚めると、白い天井が見えた。 ここはどこだろうか、と一瞬考えるも、すぐに病院だと理解した。 どのくらいぼんやりとしていたのだろう。 白い天井の染みを食い入るようにずっと見ていた私に、 「大丈夫か」 そう言って、私のベッドの横に現れたのは健二だった。 低くて柔らかさを孕んだその声に、私は酷く安心した。 「大丈夫か」 健二はもう一度私に聞く。 私はうっすらと笑みを見せて、答えた。 「大丈夫だと思う?」 健二は困ったように笑って、椅子に腰かけた。 私が健二を困らせるなんていつものことなのに、どうしてか、今の彼の困った笑顔が胸に刺さる。 私はそんな自分の気持ちを誤魔化したくて、話を変えた。 「どうしてここが分かったの?」 私は健二の顔を見ないで、そう聞いた。 病院の窓のブラインド越しに差し込む光が、まるで昨夜の残滓みたいで。 「親父さんに聞いた」 「そう」 私たちはまた無言になった。思い返せば、いつだってそうなのだ。健二と私は。 ありふれた話をして、互いに互いのこちら側を踏み込むことが決してないように。 慎重に渡っていかなくちゃならないのだ。 それは、私も健二も相手を傷つけたくないと思っているからなのかもしれない。 あるいは、それと同時に自分を傷つけたくないと必死に防衛しているからなのかもしれない。 幼馴染なのに悲しいね。そんなことは決して言えない。健二も同じことを感じているから。 健二にまた、困った笑い顔をさせてしまうから。 だから、私たちは何も言えなくなる。 どうして来たの? なんて、怖くてとてもじゃないけど聞けやしない。 彼はきっと困るだろう。そして、彼が困ると私も困るのだ。 自分のやっていることに自信が持てなくなる。 本当にこれでいいの? このままでいいの? 彼の困った笑い顔を見る度に、私は自分を責めるのだ。 そうなるのは些か辛いものがある。 だから、私は彼を困らせないようにと一層気を遣うし、彼もまた、私がそう思っていることを知っているから、困らないように必死になって笑顔の裏に感情を落とし込む。 どちらも全然うまくなんかいってないけれど。 下手くそな彼の作り笑いなんて、飽きるほど見てきたけれど、どうしてこう病室の中でするそれはこんなにも痛いのだろう。 明るい昼の光に目を細めながら、そんなことを考えた。 「……眩しい?」 健二があまりにもそっと私に問うものだから、私はまるで自分が割れ物注意のラベルを張られた段ボール箱にでもなったような気分だった。 中の繊細なものを決して壊さないように。 けれども、外側の段ボールになんて誰も興味はない。 そうね、健二は差し詰め宅配のお兄さんかな。 中に何が入っているのかなんてもちろん知らないし、知ってしまうことは彼にとっては大罪なの。 慌ただしく、目的地に私を運ぶ彼。 落とさないように。ぶつけないように。 でも、雨に濡らすのは平気で。 厄介なのは一体どちらなのかしら。 目を細めたまま、そんな他愛もない愚かな空想を繰り広げる。 返事を一向にしない私を見て、健二はどうやら痺れを切らしたようだ。 健二は何も言わず、ベッドの反対側に来ると、ベッドカーテンを閉めて日光を遮断した。 それを合図に、この世界にはもう見るべきものは何もないと言うかのように、私はゆっくりと瞼を降ろした。 その瞼の裏側で、私は健二の存在を感じた。彼が私の顔を覗き込んでいる。そんな気がした。 私は鼻をぴくりと動かして、彼の存在を嗅いでおこうと思った。 押し寄せる睡魔が私を飲み込んでしまう前に。 きっと目が覚める頃には、彼はもうここにはいないだろうから。 そんな私の様子が可笑しかったのか、彼のうっすらと笑う気配がした。 それに気が付いたときには、私はもう既に抗えない眠りに身を委ねていた。 ひんやりとした大きな掌が、私の頭を撫ぜた気がしたけれど、もはやそれが夢の中の出来事なのか、はたまた現実であったのか、定かではない。 私は海の中にゆっくりと沈んでいて、けれどもちっとも苦しくなんかなくて。 まさに夢見心地。 私は穏やかな気持ちで流れに身を任せていた。 ふと上を見上げると、キラキラした太陽の光が水面を反射させていた。 眩しくて、温かで、私はそこで初めて海面に出ようと思った。 太陽の下に行きたいと思った。 でも、私の身体はもう随分と海の底にいて、今更もがいても意味なんかないって気が付いた。 だったらもういいかなぁ。 このまま沈んでしまっても。 小さく遠くなっていく光を見ながら、私はまた薄らぼんやりとした冷たい心地良さの中に溶け込んでいく。 そんな私の背後から誰かが私を追い抜かして、勢いよく海面に向かって泳いでいくのが見えた。 そのままその人影は上に泳いでいくかに思われたが、一度その動きを止めると、私の方に振り返った。 水中で向かい合う私とその人。 空から差し込む逆光がその人の表情を見えなくさせている。 あぁ、けれども私には彼がどんな表情をしているのかが手に取るように分かってしまうのだ。 「先に、行っとくから」 いつものように優しく、困ったように笑いながら、彼は未だ沈み続ける私に向かってそう言う。 酷いよ。 どうして置いていくの。 言葉にならない思いが熱い涙になって海水に混ざる。 彼はそんな私に気付かない振りをして、二度と振り返ることなく真っ直ぐに空に向かって泳ぐ。 そんな彼の背中を見て、私はぽつりと一粒の言葉を紡ぐことしか出来なかった。 「行かないで、健二」 頭痛がして、私は目が覚めた。 何か大事な夢を見ていた気がするも、それが何だったのかは思い出せない。 私はゆっくりと起き上がり、ベッドから足を下ろす。 それから、ベッド脇にある松葉杖を取り、歩き出した。 「健二を、探さなくちゃ」 痛む両足なんか気にしてはいられなかった。 どうしてか健二に会わなくてはいけないような気がした。 訳の分からない焦燥感に駆られて、私は病室から抜け出した。 健二に会いに行くために。 健二が遠くに行ってしまうのかもしれない。 そんな不安が押し寄せた。 夢の中で呟いていた言葉を、そうとは知らず現実の私も零す。 「行かないで、健二」
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