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第15話
それから数日の間、私はとても静かに日常を過ごした。
考えてみれば雅という人間がいなくなったという事実があるだけで、特に日常に大きな変化はないのだった。雅と出会う前の日々に戻っただけ。そう考えれば何も困ることはないし、私は私で別に誰になったということもない。
パチンコ屋で孝太郎と話した日はクリスマスイブだったから、少しだけ期待をした。もしかしたら、雅から電話がかかってくるのではいないかと思って。
昔の私は、クリスマスイブの夜には奇跡が起こるのだと信じていたものだった。飛ぶはずのないトナカイが空を飛び、白髪の老人が一睡もせずに日付変更線を超えて世界中の子供にプレゼントを配りまわる。理論的に考えてそんなことは不可能だと知っていたのに。
でも朝が来ればちゃんと枕元にはプレゼントが置かれていた。それと空になったケーキ皿とティーカップ。ママと一緒に用意したケーキを食べて紅茶を飲んだサンタさん。トナカイにはクッキーを四枚。私の寝室で少し休憩をしてからまた旅立ったサンタさんは、ずっとずっと奇跡を起こし続けてくれるのだと信じていたのに。
あの頃の私はどこに行ってしまったのだろう。サンタクロースは来なくなりトナカイは飛ばなくなり、私はヘルスの一室で知らない男の上でローションにまみれて乾いた喘ぎ声をあげている。雅からは何の連絡もない。
そもそも雅という男はなんだったのか。私を殺してくれるはずだったあの背の高い従者は、トナカイが引くそりに乗り怖いスーツの男に追われて、雪深い北の国にひとり逃げ帰ってしまったに違いない。
また月曜日がやってきて、私の個室には京介の姿があった。もう年末の休暇の時期だというのに、京介は今日もスーツを着ていた。私はどういう顔をしていいのかわからず、ジャケットを脱ぐ京介の横で立ちつくすことしかできなかった。
「そんな怖い顔すんなよ。だからって笑えなんてことも言わないけどさ。まあ座って。話の続きをしよう」
そう言って私をベッドにうながした。私たちは並んで座って、しばらくは沈黙が続いたけれど先に口を開いたのは京介のほうだった。
「あれから……連絡あった? 五十嵐雅。ないよな? ないだろうとは、思いつつ」
少し、気まずさをはらんだような口調。わざと明るい表情を作ろうとしているのがわかる。いつものくしゃくしゃの髪が今日はより伸びていた。前髪が目元をすっかり隠していたけれど、髪の間からは私を見つめる強い視線を感じた。
「……ないわ。なんにも。でもなくても、別に私は困らない……」
京介が、私から雅を遠ざけたのだろうか。
雅から連絡が『ないよな?』
私に連絡をしないように、京介が雅に承諾させたということだろうか。私と雅を、別れさせるために。
それなら勝手なやり方だと私は思う。私が誰と付き合うかなんて私の勝手だし、雅がどういう人間で私に何をしようが京介には迷惑はかからない。
大体自分は結婚しているくせに。平日にこうしてこそこそ会いに来るだけのスケベな小心者。どういう人間なのかは結局わからないままだけれど、私がこの男を恐れる理屈など何もないはずなのだ。
「そっか。困らないなら良かった。心配したんだぜ? あのパチンコ屋にも出入りしてないっていうしさ。仕事には来てるって聞いてたから、まあ体調崩したりはしてないんだろうとは思ってたけど」
「……そう。私が出勤してたの、知ってたんだ。あそこに出入りしていたのかどうかも。物知りなのね。さ、服を脱いで」
イラ立ちが募ってきて、私は京介のネクタイに手をかけながら乱暴に言った。これ以上話したいこともなかったから、ルーティンの波にのせて黙らせてやろうと思ったのだ。
結局この男も抜きに来たんだ。私の身体を触りに。ならさっさとすればいい。にやにや笑って御託を並べるのは、駐車場で後頭部をぶん殴られたことへの照れかくしなのだろうか。
「え。いいよ。今日はそういうつもりで来たんじゃないから」
途端にあわてたように京介は私を押しとどめる。触れた指が私の手を強く握ろうとするから、私はその指を振りほどいて自分のパジャマのボタンを一気に外していく。
「そういうつもりがない人が何でこんなところに来るの? したいくせに。私ね、あなたのことなんにも怖くないの。あなたがどういう人だろうが、恐れて言うことをきいたりなんか絶対にしない」
シルクのパジャマの下は裸。青いフリルの紐パンがあるだけ。私は向かい合わせに京介の太ももにまたがって腰を下ろすと、その手をとって生の胸に押しつける。
「ねーえ、しよ? 気持ち良くしてあげる。ここでなら私のどこをどうしたっていいよ。でも外では、絶対に私を見つけようとしないで」
「……迷惑か。そうだよな。俺はただの客で、君は意志を持った人間で。……俺が怖くない、か。そうか、怖くないのか……」
私たちは向かい合って長い長いくちづけをする。京介のひげが頬に痛い。
舌を絡め胸に愛撫を受けながら私は次第に攻撃的な気分になっていく。私から雅を奪った男。目の前のこの男を暴いてやりたくて仕方がなくなって、両手でその長くくしゃくしゃな前髪をかきあげる。
たっぷりのゆるいカールの前髪。その下に隠された浅黒く形の良い額には、刃物によるものと思われる、十字の形の大きな古傷が刻み込まれていた。
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