第19話

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第19話

 私たちはそのままずっと部屋にいて、出前を頼んで食べ、寝て、またセックスをした。雅は支配者になったり従者になったりして、バスタブにお湯を張ってふたりでゆったりと浸かったり、そこに私を沈めたりていねいに拭いたりした。  雅の腕の中で、私は夢うつつに考えていた。今年も、いつの間にやらお正月が終わってしまったのだなと。  大人になってからはまったく普段と変わらずに過ごしているけれど、子供の頃にはお正月というのはちょっとしたイベントだった。とは言えあまりいい思い出はない。お年玉とちっとも美味しくないおせち。おせちはママの手作りで、豆とかレンコンとかゴボウとか煮干しとか、硬くて美味しくないものばかりが詰まっていた。三食重箱とお餅の三日間。  これが伝統的で正しいお正月の過ごし方なのよ、とママは言ったけど、私は信用していなかった。だってクリスマスにはチキンやグラタンみたいな美味しいごちそうを食べて、クリスマスツリーが華やかに輝くのに。お正月は美味しくないおせちとほんの少しのお年玉。バランスとしておかしいと思ったのだ。大人になった今なら、ママがどれだけ苦心して私に世間一般の体験をさせようとしていたのか理解できるけれど。  本当はママだって、常識的なお正月なんて過ごしたことはなかったんじゃないだろうか。私に体験させた『世間一般のお正月』は、大人になって急ごしらえで手にした知識に違いない。  だってあのおせちはあまりにも美味しくなかった。濃いしょうゆ味と思い出しただけで唾液がぎゅっと湧いてくるようなひどい酸味。ちゃんとしたおせちは絶対にあんな味付けではないだろう。もしあれが正統なのだとしたら、おせち料理なんて伝統が連綿と受け継がれているはずがない。  ママはいつもそうだった。自分は何も知らないくせに、私に色んなことを学ばせた。ピアノ。英語。書道。私は様々な習い事をしたけど何ひとつ身についていない。この根無し草の生活が始まってすべてを忘れてしまった。ママはいつも言っていた。 「愛はちゃんとした大人になるのよ。ちゃんと勉強をして立派な社会人になるの。そして素敵な人と出会って結婚するの。愛されて、幸せになりなさい」  今の私を見たらママはどう思うのだろう。悲しむのか、申し訳なく思うのか。私はママを責める気なんて微塵もない。ママは何も悪くない。ママも私も、同じ被害者。  今年のお正月にママはどんなおせちを食べたんだろうか。訊いてみたいような気もするけれど、私はママの居所を知らない。ママも私の居場所を知らない。私たちはこれからもきっと交わることはない。あの温かなクリスマスとちょっとだけつまらないお正月をこの先の私が過ごすことは、もうない。  そんな夢想を蹴散らすセックスとセックスの間には、雅の電話が何度か鳴った。その度に雅はベランダに出て何やら話し込んでいた。 「すみませんもうちょっとだけ待って下さい」と懇願していることもあれば「がたがた抜かすんじゃねえよ黙って待ってろ!」と怒鳴り声をあげることもあった。私はそれに関して何も言わなかった。雅のしていることに、私が口を出すことなどもうできるはずがない。  肉体と精神のすべてを雅に差し出した。私は自分の主権を放棄した。もう考えない。もう抗う必要もない。  私の穴はすべて埋まった。もうどんな過去も私を苛むことはできない。  月曜日の夕方には雅が帰り支度を始めた。ひとりシャワーを浴び、「ちょっと行ってくるね」と言う。 「……帰ってくる? 私、ひとりはいや……」  ベッドの中でどうにか口を動かした。顎の蝶番がおかしくなっている。全身の関節がゆるんで機能しない。視界すらぼやけはっきりと目前の雅の像を結ばない。 「うん、もちろんだよ。夜中にはちゃんと帰ってくる。待っててね……あ、そうそう」  ジャージ姿に濡れた髪の雅は、クローゼットから私のコートを取り出した。唯が「ブリトニースピアーズみたい」と言った、濃紺のロングコートだ。 「愛ちゃんこれ着てコンビニ行って。俺あとで出るから。じゃないとあいつ、張ってるかもしれない」 「……あいつ?」  訊き返した私に、雅は天真爛漫な笑顔を向け言った。 「『疫病神』だよ。愛ちゃんに憑りついてるんでしょ? 俺出くわしたくないから。引き付けててよ。ほら、起きて」  内ももの筋肉痛と腰から下の電池切れで、私はずいぶん無様な歩き方になっていたのではないかと思う。けれど雅に指示され部屋を出た。 「俺、ちょっと待ってから出るから」と言って雅はまたソファに腰を下ろしていた。私は裸の上にコートを着て行きつけのコンビニまで歩いて行って、ミネラルウォーターとハーゲンダッツを買った。夕方のコンビニは、部活帰りの学生で溢れかえっていた。  京介はいなかった。雅やソーマは「憑りついている」なんて表現をしたけれど、考え過ぎだと私は思う。京介は結婚をしていて家庭がある。どういう人間か結局わからないけど、指輪を外さない京介には養わなければいけない家族がいるのだから、平日の昼間に六十分だけ会う風俗嬢に入れあげ、家の周りをうろついているわけがない。  マンションまでの帰り道はいつもと同じ景色だった。五時前なのに紫色の空。お正月気分が抜けて街に帰ってきた日常。私は明日、パチンコ屋に向かうのだろうか。  同じ日常を送るのだろうか。雅が帰った部屋で嫌になる音量のテレビを眺めながらアイスを食べ、それから夢も見ずにまた深く眠った。  目が覚めたのは酒臭いくちづけのせいだった。耳にごわごわした厚い布の感触があったから、それは雅のコートで雅が帰ってきたのだとわかった。 「……たっだいま。愛ちゃん、なんか変わったことあった?」  コートの襟を私の耳にこすりつけながら、雅が訊く。私は夢うつつの自分の身体がまた濡れ始めていることに内心呆れながら、「なにもないよ」と返す。  雅はどうやって部屋の鍵を開けたのだろう、そんなことがふと頭をかすめた。でもいちいち訊くことはしない。雅だから鍵が開いた。それで理由としては十分だ。 「そっかあ……。それは良かった。ねえ愛ちゃん、えっちしよ」  バサッと音がして雅のコートが風を切った。それは雅から分離するときっと玄関の方まで飛んでいった。  あっという間に私も裸になっていた。くすくすと笑いながら雅はいつも通り私を犯した。嬉しそうに私の頚部を圧迫しながら、耳元でささやく。 「……なあ愛。旅行に行こうか。少し遠くへ。来週、休み取っとけ。一週間。俺も、行くから」  ――旅行? 私と雅で、旅行……?  その夜は少しだけして雅は眠りについた。  なぜかとても安らかな寝顔。軽くいびきをかく雅のとなりで私は思った。  真っ暗闇がとうとう私を飲み込んでくれるのかもしれない。
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