第24話

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第24話

 目覚めは鳴り響く「歌舞伎町の女王」だった。黒い穴に右半身が溶け込んで窒息しそうになっていた私は、それでやっと現実に引き戻された。部屋は朝日でまぶしく、清潔で空っぽだった。いつも通りの景色のはずなのにまるで聖堂のように感じた。見ていた夢が、あまりに悪すぎたのだろうか。  枕もとのケータイを開くと私の支配者の名前があった。安堵と恐怖が一時に襲ってきたけれど、やり過ごす選択肢はなかった。通話ボタンを押すと、甘く弾む声が耳にまとわりついてきた。 「愛ちゃーん! おっはよう! 寝てた? 俺だよー!」  私の返事は待たない。まるで愛する恋人との旅行を、心底楽しみにする彼氏のような口調。私は熱い吐息を吐いた。 「やっと色々段取りがついたよー。明日から楽しい温泉旅行に出かけようねっ。その前にちょっと前祝しよ? 今から車で迎えに行くから。今日は仕事休んでね。お店の人に心配かけるといけないから、ちゃんと電話しておいて!」  返事を返す間もなく、電話は切られた。雅に会える。背筋に太い悪寒が走る。これは安堵なのか恐怖なのか、私には判別することができない。  時計を見ると朝の九時だった。今ならソーマはまだ店に出勤していないから、タイミング的にはちょうどいい。  そう考えている自分に少し驚いたけれど、それは自然な感情だった。だって雅が私に言ったから。 「今日は仕事休んでね」  ソーマには申し訳ないけれど、挨拶は昨日済ませた。怒る様子も目には浮かぶけれど、ソーマはきっと許してくれる。あの優しくて実直なうちの店のナンバー2は、きっと私を許してくれる。  裸の身体から毛布を剥いで、ユニットバスに向かう。シャワーを浴びて頭を拭きながら店に電話をかける。電話の向こうは知らない若い声。私は自分の源氏名と要件を短く伝える。 「みさきです。目の裏で赤い光が点滅して止まらないの。かんかんかんかん音がしてうるさくて仕方ないの。今日は休ませて下さい。本当にごめんなさい」  返事は聞かなかった。折り返しの電話もかかってこない。もう、これでいい。私は『みさき』という名を捨てた。  メイクをしてワンピースにそでを通す。濃紺のコートを羽織るとケータイが歌った。表示は雅。準備は整った。 『愛ちゃん、下にいるよ! 降りといで! ドライブして海見に行こうっ』  胸が高鳴って武者震いが足元から身体を貫いた。私はトートバッグを片手にエントランスの先の赤いフェアレディZに駆け寄った。運転席から飛び出してきた雅が私を抱きとめた。背の高い雅のもっと上空まで『たかいたかい』をされて、それから私は助手席に深くうずめられる。 「会いたかったっ! さあ行こう! 愛ちゃん、愛してるよ!」  車中の雅は上機嫌だった。明日から向かう温泉街のこと、そこに至るまでの道程、泉質がどうとか名物は何かとか、途切れることなくハイテンションで語り続けていた。会えなかった間の話には一切触れなかった。相槌を打ちながら私は思った。今日の雅は、昨日のソーマのように私を逃がすまいとしているのだろうか。  冬の乾いた快晴の向こうに煌めく青い海が広がった。私たちは歓声を上げてホルダーに用意されていたコーラで乾杯をした。BGMは知らない洋楽。潮風。やがて車はいつかのラブホテルに停まる。連れ立ってエントランスの大きな掲示板の前に立った。二十近い部屋の内装がパネルで示されている。パネルが明かりで照らされている部屋は空室、明かりが消えている部屋は在室。前回私たちが訪れた部屋は空室だった。雅はその写真の下に配された赤く丸いボタンをぎゅっと押す。すると掲示板の下についた小さな排出口から、一枚のレシートが印字されて出てきた。それを手にして、雅は私をエスコートするようにしてエレベーターに乗り込む。  部屋は三階だった。以前訪れた時は夜だったからベランダからの景色でそれと気付かなかった。廊下はくすんだ辛子色のじゅうたん敷きでふかふかとしている。雅の手は私の腰に添えられていて、もう逃げられないのだと思うとなぜか可笑しくて仕方がなくなった。やっと諦めがつく。もう何も考えなくてもいい。騙されるあなたが悪いのよ。ママ、さようなら。  部屋は相変わらずの豪華さだった。私を先に部屋に導いてから、雅は「あっ」と声を上げた。振り返ると扉の外で頭をかいている。「どうしたの」と訊くと、いつもの天真爛漫な笑顔でこう言った。 「車に忘れ物してきちゃった。ちょっと取ってくるからこのドア開けといて。一回閉めるとお金払わなきゃ開かなくなっちゃうんだ。ごめんね、愛ちゃん」  言われた通りにドアノブに手をかけた。「すぐだから」と言う雅の背中を見送って、室内に目をやる。今日はもう部屋の奥の一面の窓はカーテンが開いていて、透き通る日差しにガラスの存在感が消されている。すぐそこに露天風呂の湯気が見えて、あそこで雅はまた私を沈め息を止めてくれるのかと思うと鳥肌が立つような思いがした。  今から行われるのは、すべてを忘れるための儀式。  私はみさきという名を捨て、雅で自分をいっぱいにする。あの月の夜ここで私のすべては雅のものになった。あの日と同じように、みさきを殺して完全な『売野愛』を雅のものにする。そうすれば、もう私に振り返る過去はない。  誰かのためにみさきでい続ける必要はなくなる。新世界への出発は、きっと身軽な方がいい――。 「……おっ。びっくりだな『女神』じゃん。何やってんの? こんなえろっちいとこで」  背後から、聞いたことのある声がした。私は振り返る。その瞬間ノブにかけた手をつかまれ思い切りねじり上げられた。肘と肩甲骨に痛みが走って思わず悲鳴が出た。そのまま後ろから押されるようにして室内にまろびこむ。がちゃん、と無機質な音をさせ閉まるのは、金属製の分厚いドア。 「そーいやさっきみーくんに会ったよ。『よろしく』ってさ。なにがどうよろしくなのか俺にはわかんねえけど、まあご縁があったってことで」  両腕を後ろにひねり上げられたまま、部屋の中を引きずられる。ベッドに荷物のように投げ出された私は、そこでやっと来訪者の顔を正面から見た。そこにいるのは白いジャージを着た、寝ぐせだらけ頭をしたハシマ。 「金はもう払ってんだよ。あいつが返済してきた五十万に五十万追加して計百万。多額だよなあ、その分、何してもいいんだってさ」  背中には大きなリュックを背負っていた。それを私の横に投げ出すと、ハシマは右手に拳を作り弓を引くようにして上空で力を溜めた。 「ご愁傷様。自業自得だな。せいぜい、泣けよ」  私のみぞおちに、白い拳が力いっぱい振り下ろされる。
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