第26話

1/1
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ

第26話

 バスタオルにくるまりながらワンルームに戻ると、『歌舞伎町の女王』は鳴りやんでいた。冷え切った身体が動かなくて棚の上のタオルをとることが上手くできなかった。チェストの前で口を開けたトートバッグからケータイがのぞいていた。確認をしなければと思いつつ、躊躇してしまう。  今目の前で着信を示すランプを点滅させているこの携帯電話には、録画機能がついている。今までにも録画機能付きの携帯電話というのは発売されていたけれど、それはほとんどおもちゃのような性能で、画質は悪く録画時間は数秒だったらしい。そう言った店員に「こちらはほとんどビデオカメラと言っていい性能ですよ」と勧められ契約した。録画したいものなど思いつかなかったので一度も起動したことがなかったその機能を、なぜかハシマは知っていたのだ。  昼間あのホテルの一室で、ハシマは首輪と鎖でベッドに繋いだ私を犯しながら撮影をした。勝手に私のバッグからケータイを取り出し、使い慣れた手つきで液晶部分をくるりと横に反転させた。L字にひねられたそれを構えて「なんだこれ、十五秒しか撮れねえのか」と言ったのだけれど、なんらかの操作をしたのかそのあと撮影は長時間連続で行えるようになった。ハシマはいたぶられる私を撮影し、それを私に見せ、消去しては何度も撮影した。店長とまるで同じ嗜好。けれどハシマにはブレーキがなく、やることはどんどん過激になっていった。  ひとつだけ幸いだったのは、ハシマが撮影した画像や動画を自分のケータイに送ろうとしなかったことだろうか。証拠を残したくなかった。たとえ私が今から、その証拠に傷つく人を裏切ろうとしていたとしても。  最後に撮った動画は、きっとまだ消去されずに残っている。ハシマが汚したケータイに触れたくなかった。けれどこのままにしておくわけにもいかない。誰かが私を呼んだのだ。雅だろうか。違ってもいい。重要なのは、私を呼ぶ人がいたということ。  手を伸ばし、触れようとする。そこで思い直しバスタオル越しにそれをつかもうとした。穢れたこのケータイを、しっかり拭きたかった。白いタオル地が触れようとする瞬間、私は静止した。再びその歌が始まったのだ。  『歌舞伎町の女王』。背面の小さなディスプレイが光る。躊躇なくそれを掴んだ。開くと、そこに表示されていたのはまったく思いもよらなかった名前。  『唯』  そうあった。あの真っ白で茶目っ気たっぷりの十八歳は何かを予感したのだろうか。だったら、きちんと別れの挨拶をしなければならないような気がする……。 「……もしもし、唯ちゃん? ごめんね、お風呂に入ってて……」  おずおずと切り出した。なぜか罪悪感があったのだ。けれどそんな私の遠慮はなかったものであるかのように一蹴された。唯の声は、緊張していた。 『あ、あ、愛さんっ? 相談があって電話したんです。今大丈夫ですか?』 「そ……相談? う、うん、それは大丈夫だけど」 『ひとりですか? 今どこ?』 「部屋だよ。ひとり。どうしたの唯ちゃん。もしかして何かあった?」  私の脳裏に、つい先日会った孝太郎の顔が蘇った。そうだ、あの時孝太郎は「唯が電話をすることがあるかもしれない」と言った。 「唯から電話があったら話を聞いてあげて」  それがこの電話ということなのだろうか。相談があるという唯は、『一番信頼している人間』である私に何かを訴えようとしているというのだろうか――。 『か、茅場さん、殺されちゃうかもしれない。話をつけに行くって、メールがあって。お金足りてないって言ってたから、無事に済むはずないんです。権藤(ごんどう)が笑いながらさっき出ていきました。あたし後を追います。だから愛さん、もしあたしたちがいなくなったら殺されてるって思って下さい。それを、言っておかなきゃいけないと思って』 「……え? 唯ちゃん、何を言ってるの? 孝太郎が殺される? ごんどうって、一体」 『あたしを買ったチンピラです。借金のカタに売られました。あたしパチンコ屋でバイトしながら、権藤がやってるピンサロで女の人たちの子供の面倒を見てたんです。でもこないだ十八になったから、ヘルスで働くようにって権藤に言われました。ハタチになったら、ソープ、そうやって、親の借金を返せって。それを茅場さんに言っちゃったんです。黙ってれば茅場さんはそんな無茶しなかったのに。あたしを、助けるって、言って、それで、無理にお金を……!』  ――一瞬で、私は理解した。唯の置かれている立場。孝太郎があの喫茶店で私に漏らした言葉の意味。 「輝ける日が来ると信じている」と言った唯。唯は私だ。この世界に足を踏み入れる前の私。そのままなら私と同じ道を歩く。 「正面からぶつかる」と言っていた孝太郎は、それを止めようとしているのか。唯が私の後を追わないように。身体を張って、その権藤というチンピラを止めようとしているというのか――。 「唯ちゃん。わかった。私も行く。場所、どこ?」  自分でも驚くほどに私は落ち着いていた。全身に残っていた打撲と火傷の痛みが剥離していくかのように消えていった。脈打つたびに焼けつく小指すら存在をなくす。濁っていた意識がクリアになっていく。 『そんなの……っ、だめですっ。巻き込むわけにはいかないからっ。ただあたしはあたしたちが殺されたときに無駄死になんてことになるのは悔しいから、それで愛さんになりゆきを知っていてほしくて』 「ねえ、聞いて唯ちゃん」  明日すべてを投げ出すつもりだった。その前にかかってきたこの電話は運命なのだろうか。唯の笑顔が去来する。許すまい。声が震えた。 「……あなたの人生はあなたのものよ。誰のものでもない。誰にもあなたを傷つける権利はない。孝太郎だって、同じこと」 『だって権藤は毒蛇みたいな男なんです。関わると毒されます。うちの親みたいに身ぐるみはがされて死んじゃうんです。そんなのは、もうあたしだけでいい』 「私を信用して」  この子を見殺しにする。それはすなわち私の死だ。過去の私の消滅。どこに逃げても癒されない、魂の死。 「私にその場所を教えて。すぐ行くわ。あきらめちゃだめ。無駄死になんかさせるもんですか。自由になるのよ。あなたも、孝太郎も」 『じ……じゆう、に?』  不慮の理不尽に嬲られ、それに甘んじた少女の私。暗い牢獄で誰の耳にも届かなかったその金切りは、今唯の口から溢れ私を試している。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!