第29話

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第29話

 結局孝太郎は簡単な応急処置ならさせてくれた。と言っても素人の簡素な手当てだから意味があるのかはわからない。前歯四本を失った孝太郎は恐らく鼻の骨も折れていて、試合後のボクサーより顔を腫れ上がらせていた。けれど身体の方は特に大きな問題はないらしい。本人が言わないだけで、もしかしたら必死の我慢をしているという可能性も無きにしも非ずだけれど。  私も自分の足の小指の手当てをした。普段はついているのかいないのかわからない小さな小指の爪も、失えばいつまでも尾を引くように痛んだ。鱗のような小さな破片もすべては私の一部だったのだと実感した。私という存在に、無駄なものなど何ひとつないということだ。  手当てが終わると私たちは一つのベッドの端と端で眠った。私たちには休息が必要だった。たった一日で心も身体もひどく傷んだ。けれど人生の中で忘れることができない短い夜は、あっという間に『歌舞伎町の女王』によって明けることになる。  ケータイの充電が切れそうなことは気付いていた。もう残量は数パーセントしか残っていなかった。だから昨夜のうちにフロントに電話をして充電器を貸してもらった。それは正解だった。私に電話をかけてきた相手は『唯』だったのだから。 「孝太郎っ、起きて! 唯ちゃんから電話っ。出るよ? ……もしもしっ?」  となりで孝太郎が跳ね起きた気配がした。遮光カーテンの閉まった部屋はほぼ真っ暗闇。手が震えた。ディスプレイを開け通話を開始する。私の声はかすれている。 「唯ちゃん? 大丈夫? 私、愛、どうした? 何か、私にできることが」 『あ、あ、あ、愛さんっ。……五十嵐さん、一緒ですか? い、がらしさん、そこに、一緒に……」  電話の向こうで唯は泣いているようだった。音声メモを起動するべきかと一瞬思ったけれど、孝太郎が耳をぴったりとつけてきたからそういうわけにもいかなかった。唯の口から出た名前は雅。私は孝太郎に目配せをしてから「いないわ」と返事をする。どうして雅の名が。それを訊こうとした私の耳に突然飛び込んできたのは、あの潰れしわがれた怒声。 『おめえが雅の女か!』  権藤。権藤だ。唯を喰らい孝太郎の身ぐるみを剥いだ毒蛇。  昨日の醜悪な権藤が蘇る。薄い頭に邪悪な表情を浮かべた小男。子供の頃に見た映画の中の悪魔の手先はあんな風にやせっぽちでニタニタ笑いを浮かべていた。こいつは悪魔だ。私は今、悪魔と対峙している。 『あいつ、俺をだましやがった! 上と下だけ万札で中身は新聞紙だ! 殺してやるから首洗って待ってろって伝えとけ! お前にも、この迷惑料は請求させてもらうからな!』  ぶつっと、一言も口にする間もなく電話は切れた。私は茫然。となりで孝太郎も青ざめているのがわかった。  少しの沈黙の後で、口を開いたのは孝太郎。 「……めちゃくちゃだ。元からおかしかったけどここまでとは思わなかった。あいつ、全部を捨てて逃げる気だ。美佐(みさ)ちゃんも、あずみも」 「……逃げるって、雅が……? 『みさちゃん』? 『あずみ』? それ、誰……?」  私が信じた最低な男。その本当の根っこのところにある本性は、今になってやっと孝太郎の口から暴かれることになる。 「美佐ちゃんはね、雅の嫁さん。中学の時の同級生。……あずみは、雅の子供。もうすぐ一歳になるかな。籍は入れてないけどずっと一緒に住んでた。美佐ちゃんは売春をして雅を食わせてた。それで幸せだって」 「ああ……」  知っていた。私は知っていた。雅に長い付き合いの女がいること。私に家を教えない。何かあると思っていた。でもまさか、子供がいたなんて。子供がいて私と逃げる? 唯を暗闇に沈めて? 孝太郎の誠意を持ち逃げして? ああ、雅は私と逃げるつもりなんかなかったんだ。私から金を奪ってハシマに売って、これからまだどこかの誰かに私を高額で売りつけようとしている。  そのすべての金を持って雅は『ひとりで』逃げるんだ。私と同じようにセックスと暴力で支配された女性を捨てて。そしてその人との間にできた……何の罪もない子供を、捨てて。  全身が燃えるように膨張して私は二倍の大きさになった。初めて雅という男のすべてを知った。権藤が悪魔? それは間違いない事実。でも断罪すべき男はここにもいる。雅は『自分の血を分けた子供』を『自分の意志』で不幸にする気だ。誰に騙されたわけでもなく、『親が子供を騙す』んだ。雅の子供というその少女は、この先一体どんな未来を歩んでいくことになるというのか――。 「……愛ちゃん? どうする? 雅と一緒に行くの? あいつはすぐにでも飛ぶ気だよ。最後の砦を蹴った。権藤っていうのは雅の後ろ盾をしていた男だ。……まさかそいつが、唯を苦しめている存在だったなんて、思いもよらなかったけど」  こんな時でも孝太郎の言葉は冷静。滲むのは後悔と懺悔か。私には何が浮かぶ? 引き返すきっかけはいくつもあった。でもここまで来てしまったのは私の弱さ。愚かで盲目な私の末路。行きつく先まで行くつもりの、私の旅路はその先にどんな景色を拓いていたというのか。 「出来ることをすべてするって言ったでしょ。……かかってきたわ、『支配者』から。私、こう見えてもとても負けず嫌い。スロットだってそう。いつも勝つまでやっちゃうから、止め時がわからなくなっちゃうのよね」  ついさっき切れたケータイ。『歌舞伎町の女王』が歌いディスプレイに表示される名は『いがらしみやび』。  昨日よりもっと腫れが増した孝太郎の顔が目の前にある。私はひとつ息をつく。決めた。着信ボタンを押す。 「……もしもし。雅? おはよう。どうかしたの?」 『おはよう愛ちゃんっ! いよいよ今日はお出かけの日だねっ。俺ほんとにもーちょー楽しみにしてたっ! 全部やること済ませたから愛ちゃんちにお迎えに来たんだよ? ……でも、いないからすごいがっかりして電話した。ねえ愛ちゃん、いま、どこにいるの?』  悪魔。毒蛇。そんな表現がひどく滑稽に思える天真爛漫な声色。不思議な男。雅というのは出会った日から不思議な存在だった。下手に下手に出て、可愛らしく子犬のように笑った。私が機嫌を損ねると泣いた。今になって知ったのはそれらがすべて演技だったこと。もうそろそろ、私はこの茶番から降りなければならない。 「――長い旅行になるから。入念に準備してるの。もう少しだけ待って。私から連絡するわ。……いいわよ、ね?」 『逃げるつもりじゃねえだろうな』  間髪入れずに鋭い言葉。これがこの男の本性。私は、本当はずっと前から知っていたのだ。 「そんなわけないじゃない。私は逃げたりなんかしない。ただ少し時間が欲しいだけ。ね。それだけよ」 『……そっか。わかったよ愛ちゃん。買い揃えるものとかあるのかな? お金ある? 俺、買い物付き合おうか?』 「ううん、いいの。ひとりの方が都合がいいの。誰にも探されないように、会わなきゃいけない人に会っておくだけ。今日中に電話するから待ってて。雅もお別れを言わなくちゃいけない人に、ちゃんとさよならをしておいてね」  返事を待たずに、私は電話を切った。切ったケータイをしばらく握りしめて待つ。折り返しが鳴るかと思ったからだ。でも着信は来なかった。『会わなきゃいけない人』というセリフが効いたらしい。  孝太郎と目が合う。どうするつもりだと、潰れた目が訴えかける。私はベッドを降りるとカーテンを開けた。朝日が白い部屋に満ち満ちた。脳に新鮮な空気が吹き込まれる。  それが私に決意をもたらす。 「私、行くわ。『会わなきゃいけない人』に会いに。孝太郎は病院に行って。大丈夫、必ずすべてはうまくいく。さあ、動きましょう」
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