第31話

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第31話

 白いセダンの助手席から、私は雅に電話をかけた。セリフは京介が考えた。 「今日の夕方には準備が整いそうよ」と。「だから市駅前で待っているね」と言った私に、雅は無垢そのものの声をして言った。 『車で行こうよ。どうして電車なの?』 「あんな目立つ車じゃすぐに見つかっちゃうわ。ライトをつけたらナンバーが光るじゃない。電車なら途中で降りられるからどこにでも逃げられる。そうでしょ?」  私がそう言うと、一瞬沈黙してから『そうだね』と返事が返ってきた。おそらく雅は私の真意を計りかねている。警戒している。  けれど恐らく今現在どこかに姿をかくしている雅にはできることは何もない。長い時間を共に過ごした女性と、血を分けた娘もきっともうそこにいない。悪魔は飛び立つための羽をたたんで息をひそめている。そして彼が空を舞うことは、もうない。  私も私でどこをうろついていてもいい状態ではなかったから、京介に送ってもらって一夜を過ごしたラブホテルに戻った。ひとりで部屋をとり、ケータイの充電をしながらまんじりともせず時間が経つのを待った。間で『唯』からの着信が数回あったけれどこれは無視をした。京介がそうしろと言ったから、それに従った。  ソーマにはこちらから電話をかけようかと思ったけれどやめておいた。データは複製してしかるべきところに保管しておくと言ってくれていたし、きっと今頃その他の都合の悪いものをかくすために奔走していることだろう。騒がせてしまうけれど仕方がない。私は唯にひとかけらの後ろめたさも背負わせたくはなかったから、まっとうな方法を使いたかった。だから芋づるで様々な悪事が暴かれる可能性があったけれど、『いいよ。俺も色々リセットしたいから』と言ってくれたソーマの優しさに甘えて、私は京介に挑むことができたのだ。  あのパチンコ屋の駐車場で私の要求を聞いた京介は、クリーム色のシートに身をうずめて自身への被弾が最小になる方法を考えているようだった。けれど私が「あなたは命を狙われているのよ」と口にするとふうっと笑った。 「知ってるよ」と。「そこがゴールだったんだ」と長い前髪をかき上げて。 「あいつらに殺されて初めて俺の復讐は完成したんだ。俺をあいつらの真ん中に置いた親。後悔させるには最良の方法だろう? ま、ひねたガキみたいで青臭い話だな。俺も年貢の、納め時か……」  額には大きな十字架。京介はそれをちらつかせながら何本かの電話をかけた。  それから私を街中のホテルの前に送った。「区切りがついたら電話する」とだけ言ってセダンは去っていく。街は底冷えして曇天。私は空を見上げた。  低く垂れこめた灰色の天井からひとひらの雪。この南の街にはめずらしいそのかけらがしんしんと降りつもり、すべてを純白に変えてくれればいいのにな、とからっぽの心で思った。  三時前には京介から連絡があった。権藤が逮捕された。とりあえずの証拠は私が渡したSDカード。昨夜の孝太郎への暴行と唯に対する未成年略取誘拐罪の証拠が収められている。  叩けばより多くの埃が出るだろう。P2102Vの録画機能を思い出させてくれたハシマにはほんの少しだけ感謝の念が湧いたけれど、一瞬で消えた。孝太郎からも電話がかかってきた。京介に同行して警察署を訪れていた孝太郎は、『唯の身柄を引き受けた。ありがとう』と言ってからこちらが困ってしまうぐらい大きな声で泣いた。 『このあとは時間を空けるわけにはいかない』と京介が言った。だから私はホテルを出るとタクシーを捕まえた。外は雪が増しほとんど夕暮れと言っていいほどに薄暗かった。市駅前へは五分もかからない。車中で電話をかける相手は、『いがらしみやび』。  呼び出し音が鳴る数秒の間に、雅と出会ってからのたった三か月が蘇った。天真爛漫で犬のように屈託なく笑う雅。私を姫のように扱い機嫌を損ねればくしゃくしゃの顔をして泣いた。でもその本性は欲望のままに周囲の人間を根こそぎ食らいつくす悪魔。  一時、私は雅を恐らく愛した。その手にかかることができればどんなに幸せかと思った。計画はほとんど完遂しかけていた。内縁の妻と子供を捨てひとり新世界へと旅立とうとしていた雅。  数コールで通話が始まった。私が「もうすぐ着くよ」と言うと『俺ももうすぐだよ』と返ってきた。そしてこう続ける。 『ひとりメンツが増えちゃった。びっくりしないでね。愛ちゃんにも紹介するから、仲良くしてあげて』  タクシーが市駅前のロータリーに停まる。千円札を渡してお釣りをもらった私は、いくつか並ぶバス停の奥に長身の人影を見つけた。  黒いジャージ。大きなスポーツバッグを肩から斜めにかけて。私を見つけ笑顔で大きく手を振る。その男の右腕に抱きかかえられているのは、ふわふわの髪をしてピンクのモヘアのセーターを着たまるで天使のような……。 「……えへ。驚いた? かわいーでしょー。あずみっていうの。俺の大事な、こども」  悪びれもせず雅は微笑む。桃色の頬にくちづけて。  私は雷に打たれ身じろぎすらできない。愛しそうな笑顔。腕の中の幼児が、小さな手で父の耳を触る。 「くすぐったいよ」と言う雅と、顔を見合わせて笑う――。 「五十嵐雅だな」  その時かけられた声こそが悪魔の宣告だった。スーツ姿のふたりの男。甘く柔らかな睦みあいの終わり。雅は両脇の男たちを一瞥してから私に笑いかけると、腕の中の天使に最後のくちづけをしてそっと私の胸にいだかせる。 「美佐に、あずみをよろしくって言っといて。薬はやめろって。稼ぐ男見つけてあずみをちゃんと育てろって。あいつ、頭弱いからさ」  つんつん、とマシュマロのような頬を人さし指でつっつく。その頬に大きく育ったぼたん雪が落ちて一瞬で溶けた。何も口にできない私は、ただひたすら腕の中のこどもにすがりつく。 「あずみに見せないでっ」  それが雅の最後だった。右側の男を蹴り倒すと駆け出した。大きなスポーツバックを胸に抱えて。途端に動き出すロータリー。人待ち顔のエキストラは、大半が若く優しい父を追う追跡者だったのだ。  殺到する男たち。蹴って、殴って、ほんの少し走って、すぐにもみくちゃにされて。 倒された囲まれた雅の姿はもう見えない。父の不在に不安を覚えたこどもがふにゃふにゃと泣き始めた。私は降りしきる雪がこの子にもたらす困難を遠い未来に見た気がして、強く強く、その小さく温かい身体を抱きしめた。
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