第32話

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第32話

 こんなに早急に警察が動いたのは、京介の妻の父親の存在があったからなのだという。証拠が揃っていたとは言え、あまりに鮮やか過ぎる逮捕劇に疑問を抱いた私に京介はそう言った。 「警察なんてのは、身内を守るためにある組織だからな」  それならば私たちの街で数々の悲しい出来事が野放しにされたのも納得がいく。権藤と雅が逮捕されたことで守られたのは、唯や私だったのかそれとも過去を昇華すべく暴走したひとりの警察官だったのか――。  結論はないまま、私は日常に戻ろうとしていた。  何よりもまずしなければいけないのは、あの男への連絡だった。名前も知らない、私とママを法外な金利で縛り付けているあの男。  唯一知っているのは電話番号。そこに初めて電話をかけ今月分は支払えないことを告げた。 「トラブルがあって」と言うと『そりゃ大変だな、書留を送ってやろう』としわがれた声が返ってきた。思ってもいなかった返答に、私は混乱した。 「いいんですか?」と訊くと『姉ちゃんは頑張り屋だからな』と言う。実際財布にはもう一万円札が入っていなかったから、戸惑いながらも「ありがとうございます」と答えるしかなかった。これは新たな借金になるのだろうか。でもどうせ私にのしかかるのは数千万の負債だから、それが多少増えたところで大局は変わらないのかもしれない。 『じゃあな』と電話を切られそうになったから、そこであわてて「母は元気でしょうか」と訊いた。本当はずっとこうして電話をして安否を確認したかった。  きっとどこかで元気にやっているのだろうとは思っていたけれど、本音を言えば心配だった。もう三年以上会っていない。百合の花のように清廉でしなやかで、人を疑うことを知らなかった私の大好きなママ。何かが欠けたあの綺麗な人は、どうやってこの辛い三年間を過ごしてきたのだろうか……。 『……ああ、元気にしてるぜ。支払いも一度の滞りもない。だから今回は目をつぶる。母ちゃんの手前な』 「どこにいるんでしょうか。連絡先を教えてもらうことはできませんか? ほんの少し話をするだけでいいんです。これからはご迷惑をおかけしないと約束しますから」 『だめだ』  無慈悲で冷徹。そう、三年前に私たち親子を引き離したこの男が、私の人生に初めて現れた悪魔だった。 『次にお前からこの電話が鳴った時が母ちゃんの最後だ。肝に銘じろ。これからも死に物狂いで、金を作れ』  店は当分の間休業ということになってしまった。それはうちの店だけでなく、この街の裸を売る店はほぼすべてと言ってよかった。一斉の手入れが入るのだと、ソーマが言った。 『後ろ暗いところのない店は営業したっていいはずなんだけどな。警察が暴対法と絡めて締め上げにくるらしい。あっちもこっちも大慌てだよ。今までほとんど野放しだったってのに、これももしかしたら佐野さんの仕業かもしんねえな』  このまま捜査が入れば店長はブロンズの件で間違いなく逮捕され、ソーマも無事では済まないということだったけれど、電話の向こうのソーマは明るかった。自分のことより私の心配をして、『金、大丈夫か』と気遣ってまでくれる。 『できれば遠くの街に引っ越しな。この街じゃ当分仕事にならねえ。大丈夫、お前ならどこに行ったって稼げるし、……まあギャンブル癖さえ治しゃ、そのうち借金もなくなるんだからよ』  私は「ありがとう」と言って電話を切った。「待ってるから」と言おうかと思ったけれどやめた。  ソーマには私なんかじゃ不釣り合い。この優しく強い男は、きっとこの後人生をリセットして明るい道を歩く。その道程に私という大きな荷物を、背負わせていいはずがない。    引っ越しの準備を始めなければと部屋を片付けていたある朝、ケータイが久しぶりに『歌舞伎町の女王』を歌った。この着メロも変えてしまおうと思っていたのに忘れていた。心臓が大きな手で握られたように収縮した。ディスプレイの名前を見て息をつく。そこにある名は、『孝太郎』。  あの警察署からの電話以来だった。「もしもし」と口を開くとすぐに大きな咳払いが聞こえた。えへんえへんと咳払いを繰り返し、『あ、あ、あ……愛ちゃん?』とどもる孝太郎は、きっととても緊張しているのだろう。 『久しぶり……。連絡が遅くなってごめん。色々バタバタしてた……。今さ、あの喫茶店に出てこれる? 唯もいる。報告したいことがあって』  私は「すぐ行く」とだけ言って電話を切った。さっと着替え髪をとき、濃紺のコートを羽織って部屋を出る。  朝日の差し込む喫茶店はコーヒーとトーストの香り。そのボックス席に並んで座る孝太郎と唯は、私の顔を見るなり立ち上がり、ふたりそろってぼろぼろと泣き出してしまう。 「や、ちょっと、もう、泣かないでよふたりとも。孝太郎、まだ顔が腫れてるのね。唯ちゃんちょっと痩せたんじゃない? 泣かないで。どうしたの、何かまた困ったことでも起こったの?」  そんなわけがないことはわかっている。ふたりは完全な恋人同士の雰囲気で肩を寄せ合い泣いていた。そんな姿を見ると私にまで感傷が伝染してしまって、三人でしばらくおいおいと泣いた。マスターが気を利かせたのかコーヒーを出してくれて、やっと私たちの涙は止まり話は本題に入った。 「俺たち、引っ越すことにしたんだ。この街には色々しがらみがあるから。俺の親父がいる北海道。親父がやってる寿司屋で、修行させてもらう話になった」 「……北海道。それはまた遠くに行くのね。そっか、でもその方がいいかもしれないわね」 「ああ。権藤もいずれ出てくるだろうから。全部愛ちゃんのおかげだ。ありがとう。それを、伝えたくて」 「愛さんっ……!」  それまで泣くばかりだった唯が、その時になってやっと口を開いた。色白の頬には赤みがさしつやつやとばら色に輝いている。 「あたし、本当に自由になったんですね。信じられないぐらいに嬉しい。全部愛さんのおかげです。ありがとう、愛さんはやっぱり私の、女神様」 「女神様はやめてよ」と言って私は笑った。孝太郎が分厚い封筒を差し出したけれど受け取らなかった。ただ夫を失った女性への伝言を託して、私は席を立った。 「ありがとう!」ともう一度背後で声がしたけれど振り返らなかった。感謝されるほどに戸惑ってしまう。私は私の中の衝動を行動に移しただけなのだから。  引っ越しの準備を進めた。人のるつぼに身を置き淡々と自由になる日まで生きていくつもりだった。  すべてが終わったのは数日後。行く先での面接が明日に控えたその夜、真っ白な新世界が本当に存在したことを私は知ることになる。
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